汚染される日本列島


2.  リサイクルでゴミに汚染される日本列島

 これまでリサイクルによる毒物の蓄積について整理をしてきました。いままでリサイクルと毒物の蓄積とが結びつかなかった人もいると思います。しかし、このことを知ると、個人レベルで「もったいないから」と思ってリサイクルをするのと、社会全体でリサイクルをするのは全く違いことであることがわかります。「自分一人でやること」では思いがけないことは起こりませんが、「社会全体」ということになると思いがけないことがおこるのです。

 このことと同じように、個人でリサイクルをすると「リサイクルをすればゴミが減る」のは間違いありませんが、社会全体でリサイクルをすると「ゴミが増える」ことを示したいと思います。この章でも個人の感覚を捨てて社会全体を見ることにします。そして、このことは遠い将来のことではなく、すでに施行されている「容器包装リサイクル法」、そして施行が迫っている「家電リサイクル法」ですでに大きな問題となりつつあることなのです。実際に、容器包装リサイクル法が施行された後でも、ペットボトルやアルミ缶の生産量は増加し続けていますし、またゴミは増加の一途です。

 その理由の一つは容器包装リサイクル法が施行されることによって、容器のリサイクルが環境に良いような気持ちが社会に蔓延するので、その結果、ペットボトルもアルミ缶もその生産量が増え、資源を余計に使い、ゴミを増やすことになっているのです。

 また家電リサイクル法が検討されていた頃に想定されていた四大家電(テレビ、冷蔵庫、洗濯機、エアコン)の廃棄物量は約七0万トン弱でしたが、施行時には実に一二0万トン程度までになると予想されています。近々、これにテレビの生産高を上回ったパソコンが入ると予想されます。すでに、「事実」としてリサイクルにより資源の消費、ゴミの増加が起こっているのです。

 それではなぜ、リサイクルは毒物を蓄積するばかりでなく、ゴミを増やすのでしょうか。それを「ゴミが増える科学的な理由」と「社会のからくり」から考えてみます。

2.1.  帳簿を付け替えてゴミを減らす工夫

 姿を変えてもゴミはゴミ

 テレビにドイツのある町の情景が映り「家庭からでるゴミが増えて困る。リサイクルをしてゴミの量を減らしたい。」「リサイクルを進めることによって家庭からのゴミが激減した」というナレーションが流れます。テレビ画面にはそのまま捨てるゴミ箱と、その横にリサイクルの箱が並んでいます。ゴミ箱の方に捨てればゴミになるし、リサイクルの方に入れればゴミは一瞬のうちになくなり、リサイクルに回したゴミが資源となるというナレーションが流れます。

 確かに、まさにゴミ箱に入れようとしているものを「リサイクル箱」に入れれば、その瞬間はゴミが減りますので、「リサイクルでゴミは減る」という話は単純でわかりやすいのです。そして、明治以来、多くの点で日本にとって先進国であり、尊敬すべき存在であったドイツの映像が写ると日本人は思考が止まり、ドイツが進めていることに抵抗できなくなります。日本人は気が良いので、「さすが先進国のドイツ国民は環境に対して意識が高い、こぞってゴミをリサイクルしている」と素直に感心するのです。

 本著ではドイツを手本する変わりに自分の頭を使って、リサイクルとゴミの関係を考えてみたいと思います。

 自分が使っていたものが古くなったり、故障したりしてやがて捨てる時期になり、ゴミ箱に捨てるとします。そのゴミは自治体に引き取られて一般廃棄物として埋め立てられ焼却されます。埋め立ては環境を破壊する場合がありますし、ゴミの捨て場は満杯になり、そうかといって焼却すると大気を汚染したり二酸化炭素による地球温暖化が怖いと指摘されます。

 そこまで追いつめられて、ゴミとして捨てようとしていたもの、たとえばペットボトルをリサイクルの箱に入れることになります。

 ペットボトルをリサイクル箱に入れると。もちろんその分だけ「見かけのゴミ」は減るので、これで一安心、「リサイクルによってゴミを減らす」が達成された感じがします。

 その先を少し考えます。

 リサイクルの箱に入れられたペットボトルは担当の人がある時間ごとに集めて、スーパーなどの裏口で最初の分別を行います。この段階でゴミの分別が必要なのは、消費者がリサイクルの箱に入れるのはペットボトルだけではないからです。よほど分別が徹底している場合以外はペットボトルの他に色々なものが入ってきます。それはリサイクルに対する意識の問題ではなく、「善意」でペットボトルと思って違うボトルをわざわざリサイクルの箱まで運んできた人もいます。

 「なんだ!ペットボトル以外のものを捨てて!」と怒るのはあまり適当ではありません。誰もがプラスチックの専門家ではありませんので、ポリ塩化ビニルのボトルをペットボトルに間違えることもあるし、善意でペットボトルをポリエチレンの袋に入れて出す人もいるのです。また、私たちは生活の中でリサイクルをするのですから、忙しい時もあれば、イライラしている時もあります。人間ですから、普段は環境に気をつけていても、「エイッ!面倒だっ!」ということもあって良いのです。

 かくして、スーパーの裏で分別されたペットボトルは分別したのち、袋や箱に詰められてトラックで一次貯蔵所(倉庫)に運ばれます。いちいち倉庫に運ばなくてもそのままリサイクルすれば良いように思いますが、「もの」というのはいつも一定の量が流れているものではありません。
リサイクルする目的はペットボトルを再び石油のような原料として使おうということですから、アラブの油田からタンカーで運んでくる場合と比較してみます。

 アラブから三0万トンクラスの巨大タンカーで日本に輸送されてくる原油は一次的に貯蔵タンクに貯められます。巨大なタンカーで運んでくるものですし、輸入の許可も必要ですから輸送には詳細な計画が立てられています。それでも石油精製会社は輸入した原油をタンクに貯めないで直接使うほど正確な計画を立てることはできません。

 この例でわかるように社会から集められるリサイクル品は回収業者がそれほど計画的に集荷できないので、倉庫に一次的に貯蔵することになります。

 倉庫では、ペットボトルを貯蔵するのにトラックからフォークリフトに移し、棚にしまいます。それらの管理にはパソコンを使い、そしてある程度貯蔵したら時期をみて再びフォークリフトで棚から取りだして、トラックに積み込み、リサイクル工場に運びます。トラックやフォークリフトの運転手、倉庫の管理人などが活躍し、その人達はほっかほか弁当を買って食べたりジュースを飲んだりします。輸送のガソリン、トラックやフォークリフトのタイヤ、トラック自体、倉庫の建て替え、パソコンのリース量などがこの過程で消費されます。

 さていよいよリサイクル工場に到着したペットボトルはそこで、紛らわしいポリ塩化ビニルや着色されたものを分け、フタをはずし、フタの下にあるリングをとりさり、ラベルをはがし、さらにペットボトルの中に汚いものや、ガム、釘などが入っていたりするものを最終的に見分けます。リサイクルできないものはこの段階産業廃棄物に回します。

 一度、リサイクル箱に入れたからと言ってリサイクルされたわけでは無い原因の一つがここにあります。つまり、リサイクル箱に入れても選別の途中でリサイクルできないボトルは再び廃棄物になります。よく「回収された量」という表示がされても、それは最初にリサイクル工場に持ち込まれた量であって、本当にリサイクルされてその材料が使用された量ではないことがほとんどです。
さらに先に進みましょう。

 リサイクルできそうなペットボトルは工場内に持ち込まれます。そこで(水と洗剤を使って)洗浄し、(空気を送るブローアと加熱するヒーターを使って作った熱風を使って)乾燥した後、(特殊な機械と二00℃以上の温度に保つヒーターを使用して大量の電気を使い)溶融して「再生ペレット」とにします。これ以外にも小さな操作は多いのですが、主な工程ではこのように進みます。

 そして、再生ペレットがリサイクル工場から出てきます。ペットボトルをリサイクル箱に入れてからここまで随分長い旅でしたが、これがテレビでは「ペットボトルをリサイクル箱に入れるシーン」が移された後、「このようにまた資源になります」というナレーションとともに再生ペレットが映るのです。よほどの専門家か製造の経験が豊かな人でしたら、リサイクル箱と再生ペレットまでながい道筋を理解することができますが、普通の人は、いかにもリサイクルの箱にいれたペットボトルが何もしないうちに再生したよう思うでしょう。

 テレビを見ている数秒間に終わるリサイクル?

 テレビを見ている数秒間に、リサイクルにこれほど多くのステップ、材料やエネルギー、そして人手が掛かること、そして最後に残るものは回収された量の一部にしか過ぎ無いことを想像することはできません。

 現実にはペットボトルをそのまま捨てたときのゴミの量を基準として一・0としますと、リサイクルをして出てくるゴミの量は四倍近くになります。ペットボトルをリサイクルするとよけいに環境を汚すという計算は著者だけではなく、廃棄物やリサイクルのお仕事を長くされている寄本先生、佐伯先生、そして槌田先生などの方も同様で、おおよそ三倍から十倍程度の数値が示されています。

 一方、「リサイクルでゴミが減る」というような誤解を招くのはテレビなどのマスコミ側にもありますが、ゴミを出す側の私たちやゴミを処理する自治体などの方にも多少の反省点があるような気がします。

 ゴミを出す方は、ゴミとして出せばゴミ貯蔵所が満杯になるといわれるし、焼却もできない、かといって自分自身ではリサイクルできないので、仕方なくリサイクルの箱に入れます。そして「誰かがリサイクルしてくれずはずだ。まさかゴミにはならない」と信じ込んでしまうのです。また、自治体などは「一般ゴミ」を減量したい、と思っていますので、とにかく家庭からのゴミが減ることを第一としています。そこで、ともかくゴミの一部でもリサイクル工場に行けばとりあえず、ゴミの量は減ります。そしてリサイクル工場の回収工程から捨てられるゴミは「産業廃棄物」となるので、一般廃棄物をしては集計されません。見かけ上ゴミが減ったような計算になるのです。

 こんな一時しのぎを繰り返し、かえってゴミを増やしていては意味がないでしょう。しかし、わかりにくい事なので、もう一度整理をします。

 私たちがリサイクルの箱に入れてからリサイクル工場で最終段階に入るまでに多くの人の手や材料やガソリンを使います。分別して袋に詰めるためには人の手と袋がいりますし、トラックで運搬するにはトラック、タイヤ、運転手、運転手が食べるお弁当の箱…………です。リサイクル工場でも建物、倉庫、電気、水道、暖房、ベルトコンベアーの材料、動力、作業員、パソコン、事務室の机…あげればキリがないほどのものが使われ、その間にガソリンや電気が消費されます。

 リサイクルに使用するトラックのタイヤも、運転手の弁当箱もやがてゴミになります。フォークリフトのガソリン、ベルトコンベアーの動力はエネルギーとして消費されます。しかし、これらのものは見かけは「ペットボトル」ではありませんし、少なくともトラックのタイヤが使えなくなって捨ててもペットボトルの形をしていません。そのために、「ペットボトルをリサイクルしたら、ゴミの収集場所のペットボトルが少なくなった」ということになります。それは当たり前ですが、だからといって「ペットボトルをリサイクルしたらゴミが減った」ということとは全く違うことなのです。
 リサイクルによってどのくらいゴミが増えるかは、リサイクルするものによって違いますが、ペットボトルを例に取るとリサイクルすることによって四倍以上、ゴミが増えます。この計算は三種類の方法ですることができます。一つは分離工学を使って「混合物から目的のものを取りだすのに、社会全体にその何倍のものを流通させなければならないか」ということです。この計算には①もともとペットボトルがどのくらいあるか ②回収されたペットボトルからどの程度の純度のポリエステルを取りだす必要があるか、そして③社会全体のペットボトルのうち、何割を回収するか を決める必要があります。

 現在のペットボトルの販売量である三0万トンが社会に出回っているとして、回収したポリエステルの純度が九九.九%, そして社会からの回収率を五0%とすると、一本のペットボトルを回収するのに、その一八倍程度の流通が必要です。ここでいう「流通」の実態はトラックであったり、倉庫、ベルトコンベアーなどのことを指します。そしてそれらの損耗量や環境負荷の係数を考慮しますと、最低でも三.七倍程度の環境負荷になるという計算になります。

 第二番目の計算は、石油からポリエステルを作り、ペレットにして成形し、ペットボトルを作り、それを販売して小売りまで持って来る過程を調べて、丁度映画のフィルムを逆に回転させるようにして回収側の負荷を出す方法です。この方法の長所は現実に現在、ペットボトルを販売しているので実績があるということ、欠点は石油からペットボトルを作って販売するのと、使ったペットボトルを回収するのではそのやり方が違うということです。そこで、その差を補正して推定することになります。

 第三番目の方法はLCAと呼ばれる方法で、リサイクルの過程で起こることを一つ一つ積み上げて行く方法です。この方法は「積み上げ」なので一見正確に出るように見えますが、実際には「なにをどのように積み上げるか」「現実にやると問題点がおこらないか」など未知な部分が多く、計算に大きな任意性が入ることです。つまり「鉛筆を舐める」と言いますが、途中の計算過程を少し変えると随分違った数値が出てくること、それを計算した当人以外の他の人がわかりにくいことにあります。
 しかし、だいたいのことを言えば、この三つの方法では同じ様な結論が出て、「理想的にペットボトルをリサイクルしても、最低三倍程度のゴミはでる」という計算になります。

 さらに、現実にはリサイクルされたペットボトルのうち、実際に再生されたもの以外のものは直接的にゴミになります。リサイクルにかかったエネルギーやリサイクルされたペットボトルに対してのゴミの量を計算するときは、最終的に再生されたもので「割返す」ので、再生品当たりのゴミの発生量はさらに膨大になります。

 目の前にあるペットボトルをリサイクルの箱に入れると、ゴミが増えますので、リサイクルは止めましょう。

 帳簿を付け替えてゴミを減らす

 リサイクルはゴミを増やすという著者の話を聞いて、

「確かに、そういわれれば判るような気がするが、現実に最初のドイツの例や、自分の自治体でもリサイクルによってゴミが減ったのは確かだ」
との疑問を持つ人もいます。

 この反撃はかなり複雑な内容を持っているのです。

 ゴミが減ったように見えるまず第一の理由は、目の前にあるゴミ箱にゴミを捨てるのを止めてリサイクルの箱に入れれば、ゴミ箱がそれだけ減るからということはすでに示しました。「目の前のゴミ箱」だけを見ればリサイクルすれば確実にゴミが減ります。

 第二に、自分の会社やある地方自治体だけに注目しますと、従来、ゴミとして出していた廃棄物を分別して「リサイクルが期待できるもの」としてリサイクルに回し、自分の会社やその自治体の外にあるリサイクル工場まで運搬すれば、

「自分の会社や自治体のゴミはリサイクルすれば減る」

ということになります。つまり、ゴミをある会社や地方自治体から別の場所に移すことによって一時的にゴミが減少した計算ができます。しかし、それは「ゴミを他の場所に移した」に過ぎませんから、日本全体としてはゴミは減っていません。一種の「ゴミ帳簿の付け替え」とも言えるものです。

 こんなことのために私たちはリサイクルをしているのではありません。

 似たような話に、工場内のゴミを「リサイクル品」や「再生可能なもの」と称して下請けに「販売し」、その結果「ゴミゼロ工場」を自認するところもあります。現実にそうしている会社もあり、「業界の人たち」は知っていますが、むしろゴミゼロ工場を宣言していた大きな会社自身が手を挙げてもらいたいものです。

 このような「ゴミゼロ工場」の中には専門家の言葉を信用して、環境のために本当に「ゴミゼロ」をめざして目標をたてたけれども、途中でそれはムリであることがわかったが、引っ込みがつかないので下請けにゴミを出す、という例もあります。この場合はその会社に悪意は無く、むしろリサイクルを信じて汗を流している私たち消費者と同じように専門家にダマされた可哀相な例です。

 環境を守ることが本当に良いことであれば、別に「ゴミゼロ」を会社の宣伝にしたりせずにひっそりとやれば良いのです。それなら引っ込みがつかなくなることもありません。本当はゴミゼロではなかったり、本気でゴミゼロをめざしていないのに、「我が社はゴミゼロをめざしている。つまり環境に留意している会社である」というイメージを作り、それで販売量を増やそうとしているからです。環境を守ると言うことと販売量を増やすことは相反する目的になることが多いのですから、このような行ためは社会的に糾弾するべきことかも知れません。

 法律は著者の専門ではありませんが、どうも「環境詐欺」のように感じられます。もし、内部告発でもこのような例が出て糾弾されることがあれば、そのこと自体は真に環境を改善し、日本の将来を明るくするきっかけになると思います。

 リサイクルによってゴミが減ったと見せる第三のカモフラージュの方法は、家庭からでるゴミをリサイクル品としてリサイクル工場に廻し、リサイクル工場の回収工程からゴミとして排出することです。これによってゴミは「一般廃棄物」から「産業廃棄物」となり、一般廃棄物としてのゴミは減少するという別の形の「ゴミ帳簿の付け替え」が完了します。

 この三つの理由のうち、最初の二つはあまり解説を要さないでしょう。ゴミをリサイクルに回せば目の前のゴミは見かけ上減るのは当然ですし、自分の会社のゴミを「リサイクル品」として下請けに出せば「ゴミゼロ事業所」になるからです。しかし、三番目は手口がこんでいるので、すこし判りにくいと思います。

 日本でもヨーロッパでもゴミはその出るところによって区別して分類されて処理され、集計されます。そのうち、家庭からでるものはいわゆる「一般ゴミ」や「一般廃棄物」と呼ばれるもので、日本全体で約五,000万トンあります。これに対して産業活動から排出されるゴミ、いわゆる「産業廃棄物」はその一0倍程度の四.五億トンもでます。産業廃棄物が多いのは飼育している動物の糞尿や、ビルを壊したときのコンクリートなどの建設廃材や建築現場からの汚泥など一種類で膨大なものを含むからです。

 「ゴミ処理業」としての「一般廃棄物業者」と「産業廃棄物業者」は分離されています。そしてそれぞれが担当するゴミを処理しています。その意味ではしっかりと区分されていますが、肝心の「ゴミ」の方はいい加減に分類されています。

 使い終わったペットボトルは「一般廃棄物」で、コンクリート塊は「産業廃棄物」と決まっている訳ではなく、家庭からでれば「一般」、事業所からでても食堂からでれば「一般」ですが、製造工程からでれば「産廃」となるのです。つまりゴミの分類はそのゴミの性質や物質によって分類されているのではなく、ゴミの出方で分類されているからです。

 このような分類は「もの」で分けずに「ゴミになる過程」で分ける方法で、それ自体が不適切であるとも言えないでしょう。しかし……

 ある人が一計を案じて、①家庭から出るゴミをリサイクル品と称してリサイクル工場へ回し、②そこでゴミとして出す、という二段構えでゴミを出せば、そのゴミは膨大な産業廃棄物の中に混じるので目立たないですむということに気がついた瞬間、おかしくなりました。このようなことは、およそ環境を守る精神とは関係ないことですし、手がこんでいるだけに面倒な作業です。それでも「環境というものの成績を上げるため」になりふり構わずこんなこともします。

 「何のためにこんなことをしているの?」と思う人は正常です。「我が社は環境に配慮している。だから製品を多く買って欲しい」「リサイクル率の目標値を決めてしまったから、達成しないと怒られる」「威勢良く「ゴミゼロ」を宣言してしまったから、引っ込みがつかない」などのつまらない理由なのです。

 環境を守るために日夜リサイクルに汗を流している人は、このような統計のマジックの現実を知ると悲しくなると思います。良心的な人ほど何のためのゴミ減量か?と疑問を持つと思います。しかし、多くの詐欺が巧妙なように、このリサイクル・トリックも実に良くできているのです。

 さらに、リサイクルに苦労している人は時々別の悲しい現実に出くわします。

 せっかく家庭で一生懸命分別して洗い、それをスーパーに持ち込んでリサイクルに出します。スーパーはもともと分別してリサイクルしようとは思っていない時もあります。それでも見かけは「環境を重んじているスーパー」の印象が欲しいものですから、時にはお客さんからリサイクル品を受け取るとありがたく頂戴するのですが、それは商売の上だけのことでスーパーの裏に持っていってまとめて捨てていることがあります。また、「分別しなさい」と指導されるので分別して捨てていたら「まだ、分別回収のシステムが間に合っていない」という理由で自治体がまとめて焼却しているのに遭遇することもあります。

 もともと、リサイクルは環境に良くないのでリサイクルしないほうが良いのですが、もしリサイクルが環境に良いものであったとしても「環境に良いことなら人の誠意を裏切っても良い」という姿勢には賛成できません。

 日本はリサイクルによって、毒物に汚染された汚染列島になる危険があるばかりでなく、リサイクルによって人の心が荒廃し、トリックを使うような「心の汚染列島」にもなったような気がします。

 「ゴミゼロ」は不可能なのです

 工場や事業所でゴミゼロ運動に取り組むのはとても良いことです。環境問題の基礎は使用するもの質やエネルギーを減らし、ゴミを減少することにあるからです。そして、ゴミゼロ運動をしている人の一部は本当にゴミを減らしたいと思っているでしょう。しかし、本当にゴミをゼロにするのはとても難しいことというより、科学的にも絶対に不可能なことです。

 その理由の第一はこの世の中の物質やエネルギーは熱力学的な原理によって支配されるので、「何か活動して後を残さない」ことができないからです。家庭で生活をしていてもお茶碗を一つ洗うにも水道や洗剤がいります。水道の水は二度は使えませんし、洗剤をもう一度使うことはできません。夜、寝ていても汗をかきます。汗は人間が活動するのに必要な体温を保つためですし、汚れは人間の活動の「カス」のようなものです。
もちろん、製造現場である製品を作ろうと思えば、電力も要りますし、パソコンを動かさなければなりません。普通は原料の他に補助的な材料を使います。

 仮にどう見ても何も残さないである活動しているように思う例の場合には「物質とエネルギー」を総合して計算するとそのうち容がわかります。石油という物質を物質として使えば形のあるものになりますが、ガソリンとして使えば人間の目には見えないものですが、「二酸化炭素」という物質がでます。物質とエネルギーは相互に交換することができますので、見かけ上、物質が少なく見えることもあるからです。
このような物質とエネルギーの交換関係を使って物質量を減らした場合には、物質を消費するより全体的な使用量もかえって増大するというのが原則です。また、ゴミを工場の中で焼却したり、人間の目に見えないほど小さい粉末にして大気に放出しても、それをもって「ゴミを減らした」ということはできません。

 自動車のタイヤは使用中に平均一五%が粉となって大気に放出されます。新品のタイヤが一0キロであるとすると、使い終わったタイヤの重量は八.五キロになっていて、軽くなった一.五キロは道路との間の摩擦で削り取られ、大気に細かい粉末となって飛散します。それが「目に見えない」といって環境に良いわけではありません。

 第二の理由は、現実的に現在のシステムそれ自体がゴミを発生せずに活動することができないようになっています。製造工程では原料に対して製品が一00%できるプロセスはなく、その割合を示す「歩留まり」をどの程度まで高めれるかが企業間の競争になります。

 工場で使用する用益、つまり水などの使用は随分改善されました。最近では環境関係の技術が進歩して、かつては使い捨てしていた水なども工場内でほとんど完全に回収再使用しているところもあります。

 しかし、工場内で発生する水を完全に回収再使用することはできますが、そのためには回収設備とその設備を動かすには人手、エネルギー、そして平均的には三%程の修繕が毎年必要です。工場の中で水を循環するのは環境に良いと言ってもいいでしょうが、水道局でポンプに使う電力、下水道局でおこなう集中処理場の環境負荷とどちらが社会全体として優れているか、という問題に帰着します。もし、「風力発電は環境によい」というような「自然の力を借りる方が環境によい」という論理に従えば、工場内で水を循環するより、山に降る雨をできるだけ多く利用するべき出ると言うことになり、工場内で水を循環するのは環境負荷を増大させることを意味します。ここ二十年ほど、日本の工場は行政の指導や社会からの糾弾を受けるので、工場内の水を循環するようになりました。その結果、工場が使用する電力や設備は増大し、日本全体の環境の大きな負荷になっています。

 果たして、私たちが二0世紀に築いた「大量生産の社会常識」に従うことが環境によいのでしょうか?

 つまり、工場内で人手がかかればそれだけ環境に負荷を掛けますし、電力は石油を焚いて作り、送電し変電して工場に来ます。また機械の修繕には人手、交換部品、消耗材料が必要です。つまり、工場内の水を回収するということは環境に悪くないのですが、それは「ゴミゼロ」とか「ゼロ・エミッション」とか言う行ためやシステムではなく環境的には単に「消耗品から設備へ」「電力から人手へ」というような「帳簿の付け替え」に過ぎないことも考える必要があるのです。

 リサイクルが現代の日本ほど熱心に行われない時代には、真面目で効率的な「回収系」が多く採用されました。それは本当に環境に良いものだったのです。しかし最近では「環境のためにムリして行う回収系」も現れてきました。とにかく世間の目が厳しいので、本当は環境の負荷を増やすことがわかっているのに、回収系を作ることなどの例がこれに当たります。このような場合も、工場内のことは社会ではわかりにくいし、行政もそこまでは指導できませんから、技術者が内部告発で正常にしていくことが求められます。

 少し話を戻しますが、工場には定期的に設備の更新や機械の整備、部品の交換なども必要です。事務所でも封筒を大切に使っても外から来る封筒を制限することはできませんし、トイレットペーパーが下水を流れて工場内から出るのも防げません。そのように理詰めで調べていくと、ゴミゼロ工場に勤めている人はトイレもいけないし、工場の中の機械は故障しないのでしょうか?

 そこまで追いつめると、「ゴミゼロ運動というのは精神的な活動だ」といわれることもありますし、またまずは「目に見えるゴミをできるだけなくす」という程度のものだとされるときもあります。

 ある時「ゴミゼロ」とか「ゼロエミッション」というときの「ゼロ」というのはどの程度の幅を持っているのかを聞いたことがあります。それはある放送局が本格的に「ゴミゼロ」の報道したので、その放送局に「どの程度のことをゴミゼロというのですか。そのときの「ゼロ」といのは五0%程度ですか、それとも一00%ですか」と問い合わせたところ、記者は実際にどの程度ゴミがそこから出ているのかを取材していないということでした。「ゼロ」というのは数字ですから、ひとこと「どのくらいですか?」と聞けば終わりです。

 このような運動が本当に善意で行われ、日本の将来のためになるなら、何も目くじらをたてる必要はありません。しかし、ある会社や研究所、あるいは国の機関が「ゴミゼロ」、あるいは「ゼロエミッション」ということで、国や自治体の覚えがめでたくなり、その結果、補助金を頂いたり、便宜を図ってもらったりしているとすると、それは問題です。

 そして、環境を心配する善意の第三者は、ゴミゼロ計画が「ゴミを本当にゼロにしようと努力している」と思うでしょう。また、国の税金をその活動に交付することを決めた人も「実施者がゴミをゼロにするつもりである」と考えたでしょう。専門家が「ゴミゼロ」といっても、まさかそれが「ゴミを増やすことだ」と思っているとは誰も信じないからです。

 すでに多くの税金が「ゴミゼロ」または「ゼロ・エミッション」に費やされています。この事業が、工場の外に「ゴミの帳簿を付け替えた」のではなく、現実的にゴミを減少させることができたのか、そろそろ調べる時期のようにも思います。

 著者はいつも思うのです。

 社会で環境を心配し、リサイクルを一所懸命にやっている人たちがいます。その人達は本当に社会で大切な人たちです。一方、「環境」や「リサイクル」を別の目的に使っている人たちもいます。そして、著者が残念と思うことは、本当に環境を心配している人たちに専門家が少なく、環境を守るふりをしている人に専門家が多いことです。

 そんなことが私たちの将来にあって良いのでしょうか?

 焼却してもリサイクル?

 本来の「リサイクル」は素朴なものです。そして多くの善意の人たちはリサイクルに素朴に取り組んでいます。その心は「ものを大切にしたい、そうしてかけがえのない地球を守りたい。子孫に迷惑をかけたくない」ということでしょう。その気持ちを素直に表現すれば

「リサイクルとは一度使ったものを、何とかしてもう一度か二度は使いたい。できれば繰り返し……」

と思います。著者もそのように「リサイクル」という言葉を使っています。

 しかし、現代社会では「リサイクル」はそのような素朴な使い方ではありません。

 著者は廃棄物をリサイクルしないで焼却する方がよいと考えています。それを講演会などで説明すると、「廃棄物を焼却すると二酸化炭素が増えて地球が温暖化するのではないか、リサイクルをすると焼却が減るからリサイクルを進めているのではないか、その点をどう考えているのか?」という質問を受けることがあります。

 そんなとき著者は返答に困ります。

 それは二酸化炭素の問題に答えられないのではなく、実にリサイクルを推進する立場の人が「焼却」をリサイクルの中に入れて「サーマル・リサイクル」という名前を付けて使っているからです。「焼却がリサイクル!?」と普通の人は驚くのですが、ある専門家はそれも合理的に見えるのです。

 そのために「リサイクルすれば二酸化炭素が増えないが、焼却すれば二酸化炭素が増えると思うがどうか」という質問に対して、「リサイクルは焼却を含むから……」と言うとますますこんがらがって解答にならないからです。

 この問題は、とても込み入っているので、推理小説を読むときのように慎重に読んで下さい。それでも完全に理解するのは難しいかもしれません。とにかくトリックですから。

 まず、最初に、常識があり、誠意がある人なら「焼却」を「リサイクル」と言わないということです。リサイクルはリサイクル、焼却は焼却と言えばそれで簡単に理解でき、計算も紛れがありません。

 しかし、焼却をリサイクルの中に入れるには「理屈」があります。つまり、廃棄物を単に焼却したのなら焼却に分類するべきであるが、もし、焼却、つまり「たき火」で手を暖めたり、焼き芋を焼いたり、お湯を作ったり、恒常的に電力を作ったときには、それは「エネルギー」という形で物質を回収したのだからリサイクルと言って良い、という理屈です。

 本当に巧いことを言うものだと感心します。確かにアインシュタインは物質の質量とエネルギーの等価関係をE=mc二と表現しました。だから物質とエネルギーは同一だ、というのです。乱暴すぎる定義であると著者は思います。なぜなら「リサイクル」という行為自体は「ものを大切に使う。繰り返し使う」ということであり、ものとエネルギーの等価性を言っているのではないからです。

 そして、もしこのように物質とエネルギーを同一に考えるなら、「リサイクルの時に使用したエネルギー」も「リサイクル率」の中に組み込まなければならなりません。

 たとえば、一本のペットボトルを回収したとき、「ペットボトルという物質」の回収だけ考えずに、リサイクルに使用したエネルギーをペットボトルの物質に加えて計算する必要を生じてきます。実際は「特定の物質のリサイクル率を計算するときは物質だけを計算」して、「最後に捨てる時は、そのときだけリサイクル率の計算でエネルギー回収を算入」するという非常にややこしい計算をしているのです。

 どうして同じ専門家が物質とエネルギーを使い分けて矛盾した計算をするのでしょう。

 焼却をリサイクルの中に入れたのは理由があります。それは「リサイクル率を上げたい」という意図なのです。

 それでは、次に、何でそんな「焼却はリサイクル」と定義してまでリサイクル率を高めなければいけないのか、と質問を受けます。その答えは、

「本当はその物質のリサイクルが困難であり、リサイクル率を上がらないと予想される。それでは実施者の責任が問われるので、そんなときに焼却をリサイクルに分類しておけば目標が達成される。またどの程度のものがリサイクルできたか、を計算するときにエネルギーを入れるとその数字が小さくなるから入れない。」

ということです。

 つまり、ペットボトルのリサイクル率が三0%だったとします。これは物質だけのリサイクル率です。これを「物質とエネルギー」を合計すると、リサイクルするごとに三.七倍のエネルギーや物質を使いますので、リサイクル率はマイナス八一%になります。

 ある時に著者が「ペットボトルのリサイクルは増幅係数が三七0,つまりリサイクルをすればするほど環境を汚す」と発言したところ、「私もそう思います。だからペットボトルは焼却すること、つまり「サーマル・リサイクル」が良いのです」といわれました。漫才のような会話です。

 著者の計算では現在の日本で進められているリサイクルでは、このように物質とエネルギーの両方を計算するとほとんどのものは「リサイクル率がマイナス」になります。リサイクルをすればするほど、物質が消耗し、ゴミが増えていくからです。しかし、専門家は「リサイクル率」を計算するときには物質だけを計算し、「焼却してエネルギーを回収する」という時には物質とエネルギーを同質のものとします。

 この問題の恐ろしいところは、焼却をリサイクルと言う人は主に専門家である大学の先生や産業界の人で一般の人はそんな巧みな知恵は働きません。リサイクルを推進している専門家は焼却をリサイクル率に入れた後で「私たちはこんなにリサイクルをしているのだから、あなたもリサイクルしなさい」と言い、一般の人はそれをまともに受けて、容器包装リサイクル法や家電リサイクル法を守って、疲れた体にむち打って使い終わったマヨネーズの袋を洗剤で一所懸命に洗うのです。

その人に、

 「そのマヨネーズの袋を焼いたら良いのですよ。そのとき、すこし手を暖めたらリサイクルになります」

とアドバイスしたら、真面目にリサイクルをしようとしている人は本当に怒るでしょう。環境を守るということはこれほど不真面目で良いのでしょうか? 

 用途を変えただけでリサイクル?…これは真面目だが

 鉄鋼を製造するときに「石」のような物質を多く使います。シリカなどが主成分ですが、鉄鉱石の中にも含まれていますし、製造にはなくてはならぬもので「スラグ」といいます。鉄鋼の生産高が大きいので、スラグの量も多く、一年に三000万トンも発生します。

 環境関係の統計を見ますと日本の鉄鋼生産に使われているスラグは一00%「リサイクルされている」と記載されています。それでは何にリサイクルされているのでしょうか?

 鉄鋼産業から排出されるスラグはもともと埋め立てに使用されていました。元来、スラグは土とおなじものなので海を埋め立てて土地を創生するのは、環境を良く考慮して行えば問題はありません。スラグ中に含まれる毒物を環境基準以下にすることができますし、もちろん天然の原料であり、海も汚しません。リサイクル品を日常生活の中で使う危険性よりずっと安全な処理方法です。

 しかし「埋め立て」という言葉の響きが悪いというだけで、最近では、このスラグを道路に敷き詰めて舗装の役に立っています。道路材としてスラグを使うのは社会のとって有効な使い方と思います。。

 しかし、リサイクルという視点からこのスラグの使い方には大きな問題があります。

 それは「埋め立てで土地を作る」という使い方の時はリサイクルとは呼ばないで、「路盤材」として使用するとリサイクルという分類にするという言い換えです。もともと、リサイクルということが関心を呼ばなかった頃は、製造工程から出る副産物を何に使うかという場合はそれを「用途開発」と呼んだものです。もちろん、いまでもそれが正確な言い方です。 焼却をリサイクルというのはある意図を感じますが、こちらはあまり感心しないという程度であり、スラグの用途開発をしている人は真面目です。

 再三言いましたが、リサイクルとは「一度使ったものをもったいないから大切にするためにもう一度使う」という内容を持っているものでなければなりません。スラグは鉄鋼生産の副産物であり、スラグは製品として社会で一度も使っていないものでそれを何に使おうがリサイクルにはなりません。

 それに、この問題は別の面も持っています。もともとリサイクル率を計算するときに計算する人の人生や社会への価値観が入っては不正確になります。この例では、スラグで土地を作るのはスラグの「利用」ではないのでリサイクルとは呼ばず、道路を造るために土を覆うのは「利用」であるのでリサイクルと呼ぶなどと区別をするのは間違っていて、社会を混乱させるだけです。

 なぜこのような言い換えが起こるのでしょうか? 言い換えによって日本全体のリサイクル率を表面的に高めて自己満足に浸っても意味がありません。このような言い換えが起こる理由は、本来環境を改善するための目的を持っているリサイクルは、生産効率を上げる話とは違うのですから「目標管理」をしても仕方がないのですが、長い間の大量生産、大量消費の生活の間に、目標管理の癖がついてしまったこと、そして他人に迷惑を掛けるという点では、

 「産業界はこのように鉄鋼スラグも一00%リサイクルしている。だから鉄鋼をどんどん生産してもスラグで社会が汚れることはない。そして、企業がこれほどやっているのだから、これからは市民も自分の身の回りのものを大切にしてリサイクルしよう。」

ということになるのです。たまたま鉄鋼スラグのリサイクル一00%の内容を知る機会を持てる人はよいのですが、普通の人はなかなかデータにアクセスできませんので、スラグのリサイクル率が一00%だというと、スラグは何回か使えるようになった、リサイクルはできるのだ、と勘違いすることになります。その結果、本来リサイクルしてはいけないものまで、間違えて一所懸命リサイクルし、そして絶望することになるのです。
 
 土は見えなくなる

 鉄鋼スラグについて少し別の角度から見てみます。

 従来はスラグを埋め立てに使って狭い国土を増やそうとしていました。埋め立てに対する環境アセスメントが多少不足してはいましたが、国土を増やすという目的時代はそれほど間違ってはいなかったとおもいます。しかし風向きが変わって、社会は短絡的になり、単に「埋め立て」という言葉の印象が悪いというので、路盤材に応用するようになってしまったのです。

 もしこのような考え方を押し進めると、日本はそのうち路盤材に表面を覆われた国土になるかもしません。環境に良いだろうと思ってスラグを路盤材に使い、少しずつ日本の国土から「土」の見える風景を少なくしていくことにもなりかねません。その結果、緑豊かで土の香りのしていたこの国土をすっかり変貌させてしまう危険があります。

 また、リサイクル品の毒物という視点から考えると、廃棄物はできるだけ私たちの身のまわりから遠ざけなければなりません。そのためには私たちの家の横にある道路に使えば、通行する車のタイヤとの間の摩擦で削れ、タイヤからのゴムとスラグからの粉が舞い上がります。感心した使用方法ではありません。埋め立ての方が環境を守ることになるでしょう。

 最後に「産業と生活」について短いコメントをします。

 スラグは鉄鋼生産に必要なものですし、生産には価値のあるものです。そして私たちは鉄鋼生産の恩恵を受けているのですから、何も鉄鋼スラグを目の敵にする必要はないのです。家庭で出たゴミと同じように鉄鋼スラグを「自分のもの」と考えること、そして単に「埋め立て」という言葉に神経を使わず、何が環境に良いのか自分たちは何を使っているのかを考える時代になっていると思います。


2.2.  使わないで捨てればリサイクルできる

 家電リサイクル法は一度使った家電製品をリサイクルして、そこに使われている材料をもう一度使おうという趣旨のものです。リサイクル法といって焼却するのはあまりにバカらしいのでここでの整理では除きます。本当に、一度家電製品に使った材料は再び使えるのでしょう?

 材料工学には一つの原理があります。それは

 「使ったものは悪くなる」

というものです。たとえば、買ってきたばかりのプラスチックのバケツは柔らかく、それでいて案外強いものです。しかし、そのバケツを一年も縁側においておくとパリパリになり、水を入れて持ち上げようとするとバリンと割れてしまいます。太陽の光で劣化するからです。このように材料は使えば劣化しますが、それはプラスチックばかりではありません。鉄の釘も雨に濡れたりする所では急激に錆びてボロボロになります。また古代の遺跡を見ると判りますが、石やセメントなども風化して弱くなっていきます。

 具体的な例としてテレビに登場してもらいます。テレビの外側にはキャビネットが使われていますが、その材料はポリスチレンにゴムを分散したものです。ポリスチレンだけでキャビネットを作ると強度が弱く、テレビを移動したり、何か上に置いたりすると壊れるのでゴムで補強するわけです。テレビを買ってスイッチを入れますと、テレビはかなり電力を使いますので熱くなります。置く場所によっては多少の振動を受ける場合がありますし、台所や飲食店の天井付近においた場合には水蒸気や霧状の油などを少しずつかぶるので、材料の劣化はさらに早まることがあります。

 「使う」ということはそういうことです。私たちの使っている家庭電化製品でも家具でも、食器でも神棚や床の間に飾っていいるわけではありません。様々な条件、過酷な環境の中で使われるのが普通です。特に自動車などは家の外で使用します。雨風を受け、排気ガスを浴び、時には灼熱の舗装道路の上、時には厳寒の雪の上を走ります。絶え間ざる振動と力学的な力を受けます。材料が劣化しないことはありません。

 テレビのキャビネットのゴムも使っているうちに傷んできます。例えば、五年ほど使ったテレビのキャビネットはもうリサイクルしても使えません。すでに強度は落ち、そのままの状態でそっとしておけば使える程度になります。それをリサイクルに出し、トラックで運搬し、キャビネットをブラウン管と切り離し、洗浄して熱と力学的力(シェアー)をかけて溶融し、再びペレットにすると使いもにならないほどに悪くなるからです。
 
 リサイクルするためには何時、捨てたらよいか?

 材料工学の原理で材料は使うと悪くなるのだから、リサイクルを本当にしたければ「使わないでリサイクルに回す」ことになります。新しく買ったものを使わないうちにリサイクルに出すということはあまりに非常識ですが、ある程度使えば材料が劣化してリサイクルの意味がなくなるから、どうしてもリサイクルをしたい場合にはこれしか方法がありません。

 すなわち、材料寿命と製品寿命との関係では、多くの工業製品が適切な材料を選択しているので、製品の寿命が来るときには材料の寿命もきます。そのために、その製品が一0年の寿命で作られているときに、一0年使ってリサイクルに出してもその材料が使えないのは当たり前のことです。

 つまり、家電製品をリサイクルするためには、①使わないうちにリサイクルに回す ②それはあまりにも非常識なので、リサイクルはしたいという人は家電製品の寿命がかなり残っているうちに買い換える ③メーカーはリサイクルがしたければ材料寿命が一0年のものを使い、部分的に五年で壊れるようにする 等の方法があります。もし、材料寿命一杯に使用したら、もちろんリサイクルしてもその材料は使えません。また、製品設計を合理的にして、材料寿命と製品設計をあわせたらリサイクルして回収された材料は使用できません。もし使用できるとしたら、設計者自らが自己矛盾を来すことになります。

 こういう意味では目的の不明な研究があります。国も資金を出す計画です。その研究は「リサイクルして回収された材料が劣化していないかを簡単に判別する機器を開発する研究」だそうです。この研究の真の意図は不明ですが、もし「リサイクルした材料がまだ使える」ということなら、その材料を再使用するのではなく、設計を変えなければなりません。材料寿命の設計が間違っているからです。また「リサイクルした材料が劣化して使えない」ということがわかれば捨てなければなりません。

 目的のない変な研究です。この研究は家電製品のリサイクルの施行にあわせて行われようとしています。

 そうではないと思いたいのですが、家電リサイクル法は「材料の寿命のあるうちにできるだけ早く家電製品を捨てることを推奨する」という目的を持っていると疑われます。

 材料を再生することはできないのか?

 使って悪くなった材料を再生できれば、再び使用することができます。その例が、アルミニウムや鉄です。アルミ缶や屑鉄は回収して、その一部を再生して使用することができます。特に鉄は鉄橋やビル、大型機械、自動車などに集中して使用されていますし、「塊」が多いので表面の酸化も全体の材料の比率から言うと大したことはありません。そこでリサイクルして再び使うのに大変便利なのです。

 しかしアルミ缶の場合には別の理由でリサイクルに向きません。それはアルミ缶自体が全国に分散していて集めるのがとても大変なこと、技術が進歩して使用されているアルミの板厚が薄く、表面が酸化して「アルマイト」になった部分が使えないということがあります。それに加えて、アルミ缶のフタの部分はプルトップにするためにマグネシウムが、胴体の部分の合金組成は自立性を持たせるためにマンガンが入っているので、フタの部分と胴体の部分を分離することが必要となります。また鉄やシリカは私たちの環境の中にあるので自然と混入してきますし、表面の塗装からチタンが入ってきます。この様にアルミ缶はリサイクルには不向きですが、材料を再生することはできます。

 アルミ缶のリサイクルについては「間違った数字」が公表されています。それがリサイクルを進めようとしてる社会に混乱を招いています。

 アルミ缶をリサイクルすると天然の原料であるボーキサイトから製造する場合に対してエネルギーはわずか三%ですむ、という科学的に間違った数字が専門家によって公表されています。この数字は次のように表現するべきです。

 「アルミ缶を製造して、販売せず、もちろん中に飲料も積めずに、①アルミ缶を製造した直後に、②同じ工場で作り直せば、三%ちょっとでできる。」
それとも、このように表現しても良いでしょう。

 「ボーキサイトからアルミ缶を製造するのに対して、アルミ缶用の地金からアルミ缶を作れば三%ですむ」

 リサイクルで回収されるアルミ缶はこのどちらでもありません。アルミ缶のフタの部分と胴体の部分を違う材料で作り、ラベルを貼り、飲料を充填し、トラックに乗せて全国津々浦々に運びます。そして消費者が飲み終わったら、回収し、選別し、洗浄し、フタと胴体を分け、リサイクル材料として使えるようになるのです。

 このリサイクルの過程で使われるエネルギーは三%どころか、ボーキサイトから作るエネルギーより大きいのです。その点で、専門家以外の人がわからないからと行って、三十倍以上も違う数字を公表するのは適切ではありません。最近、非鉄金属関係の研究会でこの数字が問題となり、このような誤った数字を公表するべきではない、という点で出席者の意見も一致しました。当たり前のことです。

しかし、依然としてアルミ缶のリサイクルでは三%という数字が一人歩きをして、大新聞もそれを引用しています。

 アルミニウムやアルミ缶製造メーカーは比較的良心的で、環境問題も正面から取り組んでいます。しかし、むしろ世間からのいわれなき非難を恐れてアルミ缶のリサイクルを進めていますが、この際はっきりを態度を決めてアルミニウム地金メーカーとアルミ缶メーカーは「アルミ缶の使い捨て」を標榜した方が日本の環境のためにプラスになると考えます。

 一方、プラスチック、繊維、ゴム、皮革やガラス、陶器などや悪くなったものを再生することができません。もし今後、画期的研究が成功して、劣化したプラスチックを元通りにできれば、材料工学という点では驚くべき発明であり、それならリサイクルが可能になるかも知れません。まだその目途はたっていませんから、その状態でのリサイクルは不可能です。

 リサイクルは材料工学の原理にも反します。

 生物は補修する

 ここで少し趣が変わりますが、最初に人体に流れる血流の話をしたように、材料の補修という意味で、生物の材料の補修について少し解説を加えます。リサイクルを考えるときには、視野を拡げて見ることが大切であると考えるからです。

 生物の寿命は、生物を構成している材料ということを考えると、驚くほど長いのです。人間は八0年ほど生きますし、もっと長寿の動物は沢山います。さらに植物となると数千年も生きている木があると報告されています。プラスチックで作られたバケツが外のおいておくと、一,二年でパリパリになるのに、一年中、太陽の光に晒されている植物が数百年も生き生きとしているのは本当に対したものです。
どういうわけでしょうか?

 生物にも材料工学の原理は働きます。生きていけばそれなりに生物を形作っている材料は劣化し、悪くなります。しかし、生物は簡単に死んでしまうわけにもいかないので、全力を尽くして劣化した体の部分を補修しようと試みます。生物の「自己補修機能」がそれです。

 生物の自己補修機能には二種類があり、一つは有名な「チミンダイマーの補修」で、これは「分子レベルの補修」です。そして二つ目はある特定の構造の補修で、人間の皮膚の皮膚の再生や木の皮などがその例です。

 まず、分子レベルの補修の例として、チミンダイマーについて示します。

 人間や総ての生物は遺伝子を持っていて、その遺伝子はDNAといわれる化合物でできています。DNAはアデニン(A)、グアニン(G)、シトシン(C)、チミン(T)と言う四つの化合物(塩基)を持っていて、その四つの化合物を組み合わせて遺伝情報を子孫に伝えます。DNAは複雑な立体構造をしており、プラスチックと同じような「高分子」構造をしています。外のおいてあったバケツが太陽の光で悪くなるようにDNAも太陽に光に弱く、特に紫外線で被害を受けます。紫外線は太陽からの可視光線より波長が短いのでエネルギーが高く、材料を痛めるのです。夏の海水浴で私たちの皮膚にダメージを与え、時には皮膚ガンのもとになるのもこの紫外線です。

 紫外線を浴びるとDNAの中でチミンが隣り合わせになっている箇所が損傷を受けます。チミン同士がつながって「チミンダイマー」をいう全く別の化合物を合成するのです。DNAの情報はもともとAGCTという四つの化合物の並び方で情報を伝達します。たとえばCACATTA(ローマ字読みをするわけではないが、「カカッタ」という意味だとする)とGAGATTA(ガガッタ)とは意味の違う情報になります。ところがチミンダイマーが生成しますと、CACA**A(*の所は読めないので、「カカア」)となりますから、もし損傷がないときの「カカッタ」という文字の配列が何らかの意味(たとえば「風邪にかかった」という意味)があるとすると、「カカア」は別の意味の情報(たとえば「かかあ」)となってしまうのです。

 つまりDNAの一部が損傷するとDNAの情報系はすっかり乱れて、それによってタンパク質を作って日常的な生理作用を行ったり、子孫を作ったりするときにとんでもない間違います。

 現実の補修では、DNAの一部にチミンダイマーができると生物の体に警戒警報が鳴り、その部分を「切り捨てる」作業をする酵素(エンドヌクレオアーゼ)が現場に急行します。そして生成したチミンダイマー部分の近くのジエステル結合を切り取ります。エンドヌクレオアーゼが傷の部分を切り取ると、続いて「DNAポリメラーゼ」という酵素が現れて、切り取られたところをそっくり前の状態に作り直します。実に見事な作業です。これによってDNAは障害から立ち直り、また正常に働くのです。

 皮膚と木の皮、素晴らしい着想

 生物の第二の自己補修方法として皮膚や皮の補修があります。

 私たちが風呂に入って体をこすると垢がでます。この垢は「劣化した皮膚の表面」です。生物は「材料は使えば劣化する」ということを知っており、悪くなった皮膚を捨てて新しい皮膚を作るのです。そして古くなり悪くなった皮膚を「垢」というものにして捨てる典型的な例です。「使い終わった材料は劣化して使えない。リサイクルもできない」ということを生物は知っていて、使い終わったものは捨てます。

 人間の皮膚より定期的に補修しているのが、木の皮の部分です。木は皮の少し内側に「形成層」という層を持っていて、ここで新しい細胞を作ります。形成層で作られた新しい細胞は二つに別れ、一つが木の内部に向かって木を太くし、別の細胞は木の表面に向かって進み、コルク層になります。

 人間社会でも中枢部にいて、居心地良く過ごす人もいるかと思えば、風雨が吹きすさぶ前線や現場で人の盾になって犠牲になる人もいます。木の細胞の場合も、同じように形成層で誕生しても、中に進めば長く木の中に止まりますが、外に行くとコルク層になり、そしてその翌年には皮になります。

 植物は風雨にさらされ、その表面は常に厳しい環境です。そこで木は皮を毎年作り、外側の皮を環境に捨てながら材料の劣化という問題に対処しています。決して、リサイクルはしません。人間は外で使ってパリパリになったバケツをリサイクル使用としますが、植物の方がその意味では材料工学を良く知っています。

 著者の研究室は「リサイクルは成立しない」と考えています。しかし、人類は何とかして資源を有効に使用してこの豊かな生活を守る必要があります。そこで、研究室では人工的に合成された材料に生物のような代謝機能を導入して、自己的に補修する材料の研究を行っています。まだ研究が緒についたところでとても生物のような見事な作業はできませんが、特定のプラスチックの場合、ある程度の補修ができるにようになりました。

 この本ではリサイクルを否定しています。そのためにこれまでリサイクルは環境に良いと思って進めてきた人から「環境はどうでも良いのか!」といわれることがあります。著者は「ものを大切にして資源と地球環境を守らなければならない」と確信しております。そのためには材料工学が貢献できることは生物のように自己的に補修できる材料を開発することなどが考えられるでしょう。

 材料工学の専門家はどのような研究が将来必要かがわかります。みんながリサイクルと言うからリサイクルの研究をしたり、リサイクルを標榜すれば研究費が獲得できるというような基準で科学者が動かないことを期待したいと思います。

 材料を統一してもリサイクルできない

 リサイクルを進めるには材料を統一するべきであるという考え方があります。

 材料の統一には二つの意味があります。その一つは同じ製品でつかう材料はできるだけ同じ材料を使うということ。もう一つは大量に生産させる製品の場合にはメーカーが違っても同じ場所には同じ材料を使うということです。最初の例ではたとえば、オートバイに使うプラスチック材料をABSという樹脂に統一することなどですし、また第二番目の例としては自動車のバンパーが代表的です。

 オートバイの例ですと、少しの不便があってもオートバイに使う材料をABSに統一しておけば、オートバイをリサイクルするときにどの部分がどの樹脂と考えたり、分別したりしなくても良いということです。また自動車のバンパーの例ですと、様々な材料でできたバンパーがあるとリサイクルしてもいちいち分類しなければならず、とても大変ですし、まして自動車のメーカーごとに材料が違うと下取りで自動車を買い取ってもその処置に困ります。バンパー材料が統一できればということで、自動車メーカーが工夫し、最近ではポリプロピレンという材料に統一する動きが活発です。

 ABSの場合は二つの理由で巧く生きません。一つは、ABSは優れた材料ですがテレビのキャビネットに使用するポリスチレンのように熱や光で劣化しやすいので、熱がかかるところが最初に劣化します。それを全部回収すると劣化したものが入ります。第二の理由はABS はゴムとマトリックスと呼ばれる樹脂の部分が強固な化学結合をしてその強度を持たせるようにしてあります。それによってあの綺麗な強いプラスチックになっているのです。もし、材料を統一使用としたら、どこでも使えるような極めて複雑な組成と合成方法となります。

 これに対して、ポリプロピレンは石油から比較的簡単にできるプラスチックで立体規則性があり、構造が単純で、優れた性質の材料を作れるという点からも、環境負荷が少ないのでよい材料です。この材料を自動車のバンパーに使うのは材料選択としては正しいことだと思います。そして自動車の多くは新しい自動車を買い換えるときに古い自動車はディラーに引き取ってもらいますから、そのときにリサイクルに回すことができます。その点でもリサイクルに有利なケースといえます。

 それでも自動車のバンパーのリサイクルは巧く行っていません。費用がかかるからというのではなく、やはり無意味なのです。

 材料が統一されてもなぜリサイクルできないのか?

 この世の中の多種多様の製品の中に使われている材料は千差万別です。おそらくその種類は数万ではきかないかもしれません。どうしてそんなに材料が多いかというと、それは「材料は目的があって使用されるから」といえます。自動車のバンパーでは、「毎時一五マイルで衝突しても凹むだけで運転者にはケガがないほどの防御ができること」等の要求があります。昔のバンパーは「車体を守る」程度のものでしたが、時代の進歩によって、バンパーは運転者や乗っている人の命を守るものと考えられるようになりました。それは大きな進歩であり、バンパーは衝突のエネルギーを最大限に吸収してくれなければなりません。そのためには材料がその機能を持っている必要があります。

 バケツの例で示したように、買ったばかりのバケツは柔軟性に富んでいますが、一年間も外に置いておいたバケツはカチカチ、ボロボロになっています。バンパーに使用されているポリプロピレンは比較的光や熱に強いものですが、それでも劣化します。そして劣化したプラスチックは衝撃吸収には役立たないのです。自動車の使い方は過酷で、屋外を走りますし、灼熱の太陽の下でも、雪の中でも使われます。そして振動と絶え間ない力がかかり材料としてはとても辛い環境です。バンパーが劣化するのは止むを得ません。

 しかし、どうしてもリサイクルしたいという人がいるようで、その試みを行っているところがあり、特にアメリカでは相当大きな会社が取り組んでいます。しかし、巧く行きません。バンパーとしての性能を維持するために「包み込み成形」といって古いバンパー材料を新しい材料で包んでリサイクルバンパーを製造したりしています。しかし、この場合も石油から新しく作られるバンパーの方が性能が良く、しかも環境負荷も少ないのです。バンパーはリサイクルするために車の前に置かれているのではなく、もちろん人の命を守るためです。リサイクルしてボロボロになったバンパーを使っているよりもリサイクルを止めてバンパーは焼却した方が人命にも環境に良いのです。

 なにが目的で石油から作る新しいバンパーの方が石油の使用量が少ないのに、なぜ、リサイクル・バンパーを使おうとするのでしょうか?

 適材適所

 バンパーの例で判るように材料は「適材適所」なのです。もともと「適材」という言葉自体が材料のために作られた言葉であり、その通り材料は適所に使わなければなりません。冷蔵庫は温度が低めで油を使います。特に温度が低いところはそれに適した材料を使い、油がかかる所は油に強い材料を使うのが適切で、それによって材料の寿命を延ばし、結局は環境に適した結果になります。

 テレビのブラウン管が複雑な組成のガラスでできているのは最初のところで紹介しましたが、もちろんブラウン管の全面はテレビが良く見えるために使われるものですし、側面から細い部分は放射線を防がなければなりません。材料を統一しようと言ってもそれは人間の希望であって、現実的にはムリなのです。

 環境問題が浮上するに連れて「材料を統一しよう」という機運が材料メーカーの方からもあがりました。環境に良いことなので消費者もそれに同調し、材料統一運動が起こりました。メーカーはそれほど作戦的にこの運動を起こしたのではないと思いますが、材料を統一するというのは製造コストを下げ、生産効率をあげるという意味でメーカーにとっても望ましいことなのです。高度成長期以来、日本の企業は激しい競争をしてきました。その結果、無意味とも思われるほどに材料の種類が増えメーカー自身も困っていたのです。そこに「環境のために材料を統一しよう」という機運が生まれたのですから、メーカーにとってはありがたい話だったのです。コストは下げられるし環境に協力する姿勢がとれるからです。メーカーが積極的であったのは言うまでもありません。

 その結果、無意味な程に数の多かった材料は少し整理されました。それはそれで良かったのですが、「材料と統一すればリサイクルできる」「材料を統一すれば環境に良くなる」ということはありません。それは別の問題なのです。また、おそらく材料を統一するということは生産効率の向上に役立つので、メーカーの生産量は増えるかも知れません。そうなると材料の統一が結果的に環境を汚すこともあります。


2.3.  分ければゴミ

 リサイクルを進めるにあたって、最近盛んに「分別」が叫ばれています。特に、「分別すれば資源」と誰かが言ったらしく、それをきっかけにさらに運動が盛り上がっています。本当に分別は環境に良いのでしょうか、また本当に「分ければ資源」なのでしょうか?

 現在、私たちの社会で使っているものは、材料に注目して大きく分ければ「生ゴミ」「紙類」「プラスチック」「金属類」「ガラス・陶器など」などですが、形や生活の中の分類に従えば、「家電製品」「自動車」「家具」「布団」「食器」「コップ」「ボトル」などになります。本当は材料別に分別するのが良いのですが、それではわかりにくいので、自治体などは「ペットボトル」「牛乳パック」「アルミ缶」「家電製品」などの区分で分別を行っています。

 ゴミ問題の最初は焼却に注意が言っていましたから、「燃えるゴミ」「燃えないゴミ」という分類がされました。今でもこの分類で廃棄物処理を行っている自治体も多いのですが、日本語としては「燃やすゴミ」「燃やさないゴミ」と言った方が良いでしょう。

 しかし、それではゴミを資源として利用しにくいということで、鉄とアルミニウム、銅、そして繊維とプラスチック、ゴム程度は分けよう、ということになり、現在の分別が始まりました。

 しかし、分別によってゴミを資源にすることはできません。

 まず第一に「材料工学の原理」、つまり使ったものは劣化するということが、分別によってより鮮明になります。

 たとえば、「繊維」という分別の種類をもうけ、家庭ででる繊維屑を集めて分別回収するとします。しかし、回収された繊維はおおかたはボロボロです。その中にはかなり良い繊維も含まれていますが、ボロボロの繊維と新品同様の繊維をあらかじめ消費者の段階で「分別」することはできません。一方、メーカーに持ち込まれたリサイクル繊維である製品を作るときに「新品同様の繊維」と「十分に使った繊維」を見分けられないので、製品の設計に当たっては「リサイクルされた繊維の内、一番弱いものを基準にして作る」ことになります。

 昔、着物を繰り返し使うときでも、すっかり疲れた布を新しい着物に使うことはしません。雑巾などの使って最後に捨ててしまいます。そして新しい布と古い布を家庭でわざわざ混ぜて悪い布にすることもありません。昔のリサイクルは素性の判った範囲で行われていたから、その布の状態にあわせてリサイクルをしていました。しかし、現代のリサイクルは社会規模で行われるので、素性が判らないという欠点があります。国民的レベルで繊維を分別しても再利用できないということになります。

 現代社会に流通している「製品」というものは案外チキンと基準が決まっていて、粗悪品はそれほどありません。もし、新しい繊維とボロボロに弱くなった繊維を混合して衣服を作ると、その衣服は強いところが破れるのではなく、弱いところが破れ、そのおうな製品は信用を失って売れなくなります。

 特に、日本は非常に品質の良い商品が売られているという点で世界でも誇れる国で、それが私たちの生活を豊かにしています。良く、「どこの国に行ったらいつもファックスが壊れて使えない」とか「どこの国に行ったらホテルのシャワーはいつも壊れていた」という話があります。そんな社会より、日本のようにいつも快適な故障のない国にすみたい物です。そして、そのこと自体は日本が誇るべき製造技術、品質管理技術です。そのような恵まれた環境の中にいる私たちは、衣服の中に容易に糸切れを起こすものを許しません。リサイクルが本格的に進んできたり、分別が進むと日本も故障の多い国になる可能性があります。

 ゴミの分別がはじまって、繊維を一生懸命に分別している人にとても同情します。人間はその人にとって、また社会にとって意義のあるものなら、どんな苦労も苦労になりませんが、誠意をもって行う行為が報われないほど酷いことはありません。分別というものが様々な問題点を持っていることが専門家には最初からわかっているのですから、それを多くの人にやらせているのは問題です。

 分別するとリサイクルの矛盾が拡大する

 ゴミの分別には別の矛盾があります。それは「薄ものは使えない」という分離工学の原理から来るものです。

 それは分別すると一つ一つのものはその量が少なくなることです。分別前には一台のトラックが満杯にゴミを積んで運ぶことができた所でも分別が始まると、少しずつ分別したものを積んでいかなければなりません。また、ゴミの焼却炉だけなら人口一五万人程度の市町村でも置くことができますが、製鉄工場、アルミ工場、銅の精錬工場、ガラス製造工場、プラスチック・リサイクル工場、ゴムの工場、繊維工場などを一つ一つ市町村で作ることはできません。せいぜい県に一つ、ものによっては東日本に一つ、西日本に一つということになります。

 またもともと日本では作っていないものは日本の中に製造工場もありませんし、製造するための技術やノウハウもないので、本気でリサイクルをするのなら外国まで運ばなければなりません。このように「分別」は分離工学を持ち出すまでもなく「移動距離の増加」を意味していることがわかります。

 さらに「工場」というものの特性が加味されます。

 ゴミの焼却工場は単にゴミを焼却するだけなので工場が簡単で機器の数が少なのですが、それでも、受け入れ、焼却、煙の処理、灰の貯蔵、管理棟などで構成されます。これに対してリサイクル工場では受け入れ、選別、選別した残りの貯蔵、処理、除去、除去したものの貯蔵、処理、洗浄、洗浄水の工場内リサイクル、乾燥、乾燥した空気の浄化、工場内輸送、溶解、賦形、製造工程で出るゴミの処理、管理棟、販売関係など多くの工程が必要となります。新品の原料が運ばれてくる製造工場はそれでなくても複雑なのに、リサイクル工場は製造設備に加えて、リサイクルの原料を作る設備が必要で、手作業の所も多いので、さらに複雑になる傾向があります。

 工場が複雑で機器の数が増えると、それに応じて大きな工場をたてる必要がある。つまり、機器の数が一00ヶの工場に対して、機器の数が一000ヶになったら、原則的には一0倍の生産力を持つ工場が必要になります。一つ一つの機器があまりにも小さくなると環境負荷が増えるからです。焼却工場は要素が単純ですから、小さくても運転できますが、工業製品の工場が小さいことはほとんどありません。ここでは工程の数の比率分だけ大きさに違いがあるとして、リサイクル工場の最低の規模は焼却工場の三倍程度とします。

 「分別すると遠くに運ばなければならない」「小さな工場は環境負荷が大きい」という二つの制約から、ゴミとして捨てた場合にトラックが走る距離を一とすると、リサイクルとして捨てた場合のトラックは三0倍の距離を走ることになるのです。本格的な「循環型社会」が訪れたら、リサイクル物質を運搬するトラックが重要無人に走り、ガソリンや軽油を使い、道路を頻繁に補修し、交通渋滞は酷くなり、煤煙は増え、交通事故も増加するでしょう。

 本書の最初の所に整理しましたが、もともとリサイクルが不合理な大きな理由の一つが使ったものを集めるのが大変で膨大な環境負荷をかける、ということでした。リサイクルの最大の欠点をさらに拡大するのが「分別」なのです。

さて、何を分別するのだろうか?

 私たちの身の回りのものをザッと見回して下さい。最初に目に付くテレビ、冷蔵庫などの比較的大きな家庭電化製品、ノートパソコンやウオークマンなどの小型の電子電気製品、机やイスなどの家具、プラスチックの引き出し、壁に掛けてある飾りもの、時計、カバンや本棚、そして本、電気コード、コップや紙袋などなどです。

 テレビや冷蔵庫を見ると誰でもそれらがプラスチックや金属、ガラスなどの他種類の材料から複雑にできていることが判ります。それはノートパソコンやウオークマンなどのように小さく精密なものになるほど、手に負えないほどの材料が組み合わさっているのが判ります。

 この様に複雑に材料が組み合わさっていることは決して生活にも環境にも悪いことではありません。物質を少なく使い快適な生活に寄与し、かつ環境に配慮すると材料は組み合わせてその特徴を活かして使うことになるからです。

 さらに机やイスなどのように一見して木材ばかりで作られているように見えても、釘や取っ手などは鉄が使われています。ほとんどのものが複数の材料です。たとえば居間に置かれている時計を例に取ってみます。

 読者の身の回りにある時計はどんな材料でできているでしょうか?ありふれた家庭用の時計を考えてみて下さい。時計の箱、針、文字盤、表面のガラス、廻り人形など総ての部品が様々な材料で作られています。この時計が古くなり捨てるときになったらどうして分別するのでしょうか?

 総てを分解し部品ごとに分け、分別して細かい金属類とプラスチック、そしてガラスなどに分けたとします。その結果、プラスチックは劣化しているのでリサイクルをしても再び使うことはできません。木材の類もダメです。ガラスは組成が複雑ですので、混合したものは原料になりません。

 辛うじて資源となる可能性のあるものは金属類ですが、このように少ない量の金属類を一つ一つ持ち込んでも分離工学の原理が働きかえってエネルギーや物質を消耗してしまいます。そして金属類だけを利用するならもともと分別しないでまとめてゴミとしてだし、焼却して金属類として一気に回収した方が利口です。

 分別の矛盾は日常的な生活の中だけではありません。テレビのブラウン管に三度登場してもらいますが、ブラウン管はガラス自体が複雑な組成をしていて、三つの部分によって細かく性能との関係が決まっています。そのうえ、ブラウン管は「ガラスだけでできている」ということは無いのです。ガラスの内面には蛍光体やその他のもの、ブラウン管の機能を発揮する物質が使われているのです。それをどうして分別するのでしょうか?できません。

 かくして、分別の具体的対象となるのはペットボトルやアルミ缶、牛乳パックのような日常的で単一の材料でできているものから始まりました。しかし、それらは別の理由でリサイクルをすると環境を著しく悪化させるのです。

 一体苦労して分別する目的な何でしょうか?また、私たちの身の回りの何を分別して、何を回収するのか誰か考えた人がいるのでしょうか?「分別回収をしたほうが良い」と言った人は実際に分別をしていないのではないでしょうか?

 誰が「分ければ資源」と言ったのだろうか?

 犯人探しをするつもりはありませんが、誰が最初に「分ければ資源」といったのでしょうか?そういう限りはその人はチキンとした根拠を持ち、信念をもってそう言ったのでしょうか?あるいは、ほとんど材料工学も分離工学も知らずに、単に感覚でコピーを作ったのでしょうか?

 そのコピーを自分だけに使うのでしたら問題が無いのですが、そのコピーによって多くの人がリサイクルに汗を流し、限られた空間中に「分別したゴミ」の箱を用意し、疲れて帰ってきた夜も分別に苦労し、しかも意味が無いのです。

 本当の所は「分ければ分けるほどゴミ」なのです。一番良いのが「分別しないこと」であり、どうしても少し分別したければせいぜい鉄屑などが良いかも知れません。しかし、鉄屑の分別すら疑問があります。

 鉄がリサイクルできるほとんど唯一の物質であるのは、その生産量が一億トンと材料の中で群を抜いて多いこと、そして鉄橋やビル、機械類などのように「まとまって」鉄が回収されるからです。しかし、鉄ですら徹底的にリサイクル使用とすると、「銅と一緒の鉄」を回収することになります。金属工学では良く知られたことですが、鉄の中に銅が入ると鉄の品質が悪くなり使えなくなります。

 ムリをしなくてもリサイクルできる範囲で屑鉄を回収するのは良いのですが、それより深くリサイクルしようとすると障害が出てきます。
おそらく、最初に分ければ資源というコピーを思いついた人は善意で作ったかも知れません。しかし、失敗は失敗として早くこの間違ったコピーを消して、国民を「分別」の苦しみから解放することをお願いします。

 実はゴミの分別には他の意図も含まれていますから、簡単には分別を止めないと思います。ゴミを分別すると各家庭からでるゴミは確実に減るからです。しかし日本全体のゴミが減っているわけではありません。分別したゴミは結局資源にはなりませんが、工場から排出されるので産業廃棄物に帳簿が付け替えられます。

 「ゴミを分別すればゴミは減る」ことは確かですが、それによってかえって日本全体のゴミは増えます。


2.4.  ゴミをとめて燃やしてもダイオキシンはでない

 分別が環境を守ることとは逆方向であることがわかりました。

 そして、現代の製品の多くがそうであるように、製品の完成度が高く、複雑で付加価値の高い製品ほどリサイクルが難しく、リサイクルによって環境を汚す指標であるリサイクル増幅係数が高くなります。そこで廃棄物は大型のものも、家庭電化製品も、自動車もすべて「一緒に焼却」して「灰を貯蔵する」のが一番良いことになります。もし分別が適切な製品をピックアップするとしたら「自動車」や「エアコン」などに限られます。その他のものは分別すればするほど資源が失われるので、できるだけまとめて焼却するのが適切です。

 しかし焼却するとダイオキシンが発生したり二酸化炭素の発生で地球温暖化が進むと心配する向きもあります。廃棄物の焼却には歴史的な問題があり、その誤解を解くことは容易ではありません。それはこれまでの焼却の基本的な考え方が間違っていたことによります。(先に説明しましたように「焼却はリサイクル」という定義がありますが、本著では「焼却はリサイクルに入れない」ことで統一したいと思います。)

 焼却は化学反応である

 昔、焼却はたき火から始まりました。燃えるものがあるとそれに火をつけて燃やす、ただそれだけだったのです。従って、燃やすときの温度も「なりゆき」でしたし、焼却して出てくる煙やガスの「少し臭い」程度のことで、特別の関心もありませんでした。そういう風でしたから、焼却の条件をコントロールするなどということはなく、そのまま今日まで続いて来ました。

 しかし、大量に廃棄物を焼却する時には、その量も中身もすっかり変わっていたのに、社会はそれに気づきませんでした。そのためにまず、塩素や臭素が入った廃棄物を低温で焼却してダイオキシン騒動が起こりました。もちろんできるだけ塩素や臭素を使わない方がよいことは良いのですが、人間はある程度毒物も使用し、それを巧くコントロールする文化を持っています。

 「ゴミの焼却」というものを少し離れて見ますと、立派な化学工業なのです。原料は可燃性物、反応は酸素、そして多少の触媒や装置が必要です。どんな化学工業でも原料と反応物を反応容器にいれて「成り行き」で反応させれば目的物を得られないばかりか多くの場合に有毒物質を発生したり、目的物以外の副生成物が大量に生成します。それを避けるために反応容器を慎重に設計し、反応条件を綿密に研究するのです。たとえばNHKで放映した千葉のプラントは実績のあるものですが、ゴミが酸素と触れる場所の温度を二000℃程度にして、ガスの通過点は一六00℃程度にすればダイオキシンはもちろん、その前駆体になりそうな化合物もみあたりません。再合成によって有毒物が出る可能性も科学的に否定されます。

 このような「反応型燃焼装置」あるいは「ガス改質型焼却装置」で三0万人程度の市を想定して現実性があるかについて簡単な計算をしてみます。ゴミは分別しないでまとめて焼却するとします。標準的なランニングコストは水や電力などの費用がキログラムあたり二円、補助的に使用する材料や修繕費が三円、人件費が二円程度でおおよそゴミキログラムあたり七円程度です。一方、設備費をどのように計算するかは難しいところですが、最初に一五0億円程度かかるので、これを一五年から二0年使用するとキログラムあたり九円程度になり、合計して一六円というところです。これは現在より安価です。

 このようなガス改質型焼却装置では電力や燃料ガスが副産物としてでますので、それを勘案するとさらに安くなり、現在のゴミ財政はさらに改善されますが、そのような経済的な視点だけで考えるのではなく、材料工学、分離工学、そして廃棄物工学の視点から「ゴミというのは反応型のガス改質型焼却炉で処理するのがもっとも優れている」という本質的な見方が大切でしょう。

 自分たちが使ったものは自分たちで合理的に処理するという考えをしっかりもち、「何とかうまくやろう」などと考えないことです。真正面からしっかりやりたいと思います。

 このように「燃焼」を「化学反応」と捉えて、その条件を絞れば焼却でダイオキシンなどの有害物質が発生する危険性はありませんし、その方がリサイクルをするよりも極めて簡単に私たちの目的を達成することができます。

 また、プラスチックを焼却するとダイオキシンがでるという単純な発想から、優れた焼却炉を選択する方向に行かずに、さまざまな別の方法が検討され、一部は実施されています。過渡的な現象としてやむを得ないところもありますが、

「ゴミが焼却炉はダイオキシンが出る。だからゴミは焼却しない方が良い。だからどんなに環境負荷が高くても別の方法が適当だ」

という考え方を私たちや、まして専門家がとるのは問題でしょう。つまり、第一にゴミを焼却しても条件さえコントロールすればダイオキシンはでないこと、第二にダイオキシンがどの程度の毒性を持つか専門家として判断しなければならないこと、そして、第三に環境によいということと経済的に優れていることは同一である、ということを冷静に判断することが求められます。

 私たちは科学の恩恵を受けて健康で文化的、そしてなによりも歴史的にも人類始まって以来という長い人生を楽しむことができるようになりました。化学プロセスの原理を良く理解して本当に私たちの役に立つように廃棄物の処理を行ったら良いと思います。

 ゴミを焼却すれば石油の輸入が減る

 これまでに説明しましたように、使い終わったプラスチックを元に戻すには高分子の鎖をつなぎ直さなければなりません。それは材料工学的にできないことですが、燃料として燃やせば新品のプラスチックも使い終わったものも同じ量の熱を出します。石油もほぼ同じ熱量です。そこで、廃棄物はリサイクルしないで焼却するのが適切ということになります。

 この理由を順序をおって整理します。

 第一に日本の国内には石油資源がありません。すべてアラブ諸国などの外国に頼っています。できるだけ石油の使用量を減らすことは環境的にも、また生活を防衛する意味でも大切です。

 第二に、石油を全部輸入に頼っているにも関わらず、輸入原油の約九割を電力や輸送の燃料として燃やしています。これを「石油の生炊き」と言います。なぜ「生炊き」というかというと、せっかく色々なものとして使える石油をなににも使わずに燃やしてしまうので「もったいない」という気持ちを込めてそのように呼んでいます。

 第三に、プラスチックは石油から作られますが、新品のプラスチックも使い終わったプラスチックも燃やせば石油とほとんど同じ熱を出します。
この三つの基本的な環境を頭に入れた上で、数字をチェックします。現在、日本に輸入される石油は年間約三億トン、そのうち、プラスチックに使用されるのは一五00万トン、その他、様々な用途に使われる量を差し引くと、燃料として輸入原油の約九割にあたる二億八五00万トンが燃やされます。

日本の環境と国力を考えますと、理想的な原油の使い方としては、

一. 輸入原油をできるだけ多くプラスチックにする。
二. 使い終わったプラスチックを全量焼却して、その熱を電力として回収する。
三. 使い終わって材料として使えないプラスチックはリサイクルしない。

が一番良いことは議論がないでしょう。使い終わったプラスチックが電力に変わりますから、現在、三億キロリットル輸入している原油は二億八000キロリットルに減少する計算なります。もちろん、使用したプラスチックは全部は回収できませんが、方向としては可能であり、好ましいものです。

 「プラスチックをリサイクルしないで、焼却すれば二酸化炭素が出る」という心配も聞かれますが、日本に原油を三億キロリットル輸入してプラスチックを中途半端にリサイクルするよりも、プラスチックを焼却することに決めて原油の輸入量を九割に削減した方が良いのです。

 こんなに簡単な理屈が通らないところにリサイクルの問題の「よじれ」があるのです。原油は資源的に「遺産組」に属していて限りがあるものです。プラスチックは私たちの生活に利便性をもたらします。できれば、輸入原油のすべてをプラスチックにして、一度国民がその利便性を享受し、その後、焼却して燃料として使うのが合理的な方法であり、かつ環境にも優れているのです。

 その上、プラスチックを再び「材料」として使おうとすると、リサイクルする材料の数倍の石油を消費するのですから、なにをやっているのか分かりません。「石油の生炊き」という言葉がズッシリと胸に響きます。


2.5.  リサイクルは遺産を食いつぶす

 著者の前書(「リサイクルしてはいけない」)にリサイクルをするほど資源を使うことを示しました。それを「リサイクルの増幅矛盾」といいました。この増幅係数はリサイクルの物質の循環を「量」として捉えたものです。もう一つはリサイクルを物質の「質」に関して考えることを提案します。

 その例として「紙のリサイクル」と「製鉄方法と二酸化炭素の排出」を取り上げます。
 
 紙は太陽エネルギーから作られる

 紙は木から作られます。木は太陽エネルギーで育ちます。木は緑の風景を作り、鳥や動物を育て、二酸化炭素や空気中の毒物を浄化する効果があります。人間は昔から森林を大切にしてそこからの恵みを受けてきました。緑が多いことはとても良いことですし、太陽エネルギーは毎日変わらずに地上に降り注ぎますので、まさに森林は太陽が人間に送ってくれる恵みであり、何十億年も続く「持続性資源」なのです。

 その恩恵を受けて木々は緑を濃くし、海洋ではプランクトンが繁殖します。海の水は太陽の光で蒸発して雲となり、地上に雨や湿気をもたらします。もし太陽の光が海を暖めなければ、地球の陸地は全部、砂漠になるでしょう。

 この様に太陽エネルギーは私たち人間、そして生物にとってかけがえのないものであり、毎日毎日、確実に私たちに恵みを与えてくれるという点で、私たちの日々の生活にたとえれば「月給」のようなものなのです。そして太陽のエネルギーによって作られる森林、海洋のプランクトン、プランクトンを食べて増えるイワシ、海洋からの蒸発した水蒸気が山に雨となって地上に降りそそぎ、それで発電した電力、太陽エネルギーの偏りでできた風を利用した風力発電などみんな月給から直接的に形を変えた資源であり、これを「月給組」の資源と言います。

 これに対して石油は数億年前、数億年かけて地球に降り注いだ太陽の光を(結果的に)人間のために貯金しておいたものなのです。石炭も数億年前の植物の死骸が地下に横たわっているもので、植物をはぐくみ石炭のもととなったセルロースを合成したエネルギーは太陽の光です。さらに鉄鉱石も生物起源のものは太陽のエネルギーが直接的に集めたものですし、地殻の運動も自然のエネルギーが少しずつ行ってきたものです。天然ガスは資源的な意味では多少議論がありますが、現在のところは石油と同等と考えても良いでしょう。

 鉄鉱石はまだ地表に酸素が十分に無かったときに海の生物が鉄分を取り込み、それが堆積したものが多いといわれています。また銅などのように地核の作用によってあるところにまとまって存在するものも、長い地球の歴史の中でできたものには違いありません。人間が活動するような短期間でできたものではないのです。 

 その意味で石油や石炭、天然ガス、鉄鉱石、銅などの資源は、自然が人類に与えてくれた遺産のようなものであり、これを「遺産組」の資源と言います。
 
 月給を使わず遺産を使う

 紙は木、すなわち太陽エネルギーから作られますが、紙をリサイクルするときには太陽エネルギーは使いません。リサイクルには主に石油や鉄板(鉄鉱石)を使います。従って、「紙のリサイクル」という行為を資源的にみれば「石油という遺産組の資源を使って木という月給組の資源を倹約する行為」ということができます。これを「リサイクルの持続性矛盾」と言います。

 紙のリサイクルが環境に良いと思って長い間やっている人がおられると思います。その人にとってこの話は突然では少し判りにくいと思いますので、少し丁寧に説明します。

 紙は太陽エネルギーを利用してできるものです。それは太陽がある限り続くもの、そして自然との調和のもとで行われる人間の活動です。紙の消費と森林の破壊については次に示しますが、「紙は太陽エネルギーの利用として理想的なものの一つ」であると言うことをまず頭に入れます。

 それに対して「紙のリサイクル」は紙をリサイクルに出せば完結するわけではありません。石油からとったガソリンや軽油を使って運搬します。トラックは鉄鉱石とタイヤの原料の石油を使います。紙のリサイクル工場ではフォークリフトで運搬し、人手で選別し、電力でベルトコンベアーを動かし、さらに紙に印刷されているインキを除くのに金属の触媒なども使いながら「脱墨」という反応をします。

 紙のリサイクルをするためのこれらの行為は「遺産」をつかいます。

 私たちの生活のように、月給は月々もらう額だけで生活をすれば安定した生活を送ることができますが、限りある遺産を使えば生活は不安定になります。よほど変わった人でなければ月給があるのに、それを使わずに捨てて遺産を銀行から降ろして使う人はいないでしょう。

 紙のリサイクルは太陽の光は貯蓄できないという点で、せっかくの月給を使わずに捨てて、石油という遺産を使う行為なのです。

 それも遺産が膨大にあって当面心配ないのなら多少遺産を使っても良いかもしれません。しかし、資源の枯渇は迫っていて、世界石油連盟の公式発表では石油の資源寿命はあと三八年です。もちろん新しい油田が発見されますから、三八年でなくなるわけではありませんが、石油が「限りある遺産」であることは間違いないでしょう。

 毎月入る月給を使わずに遺産を使う?奇妙です。

 紙のリサイクルはすぐに止めましょう!

 紙のリサイクルほど明確ではないのですが、リサイクルの中にはこの「持続性矛盾」を含んでいるものが多数見られます。たとえばリサイクルの優等生である鉄のリサイクルでも、鉄の寿命はあと一00年はあるといわれています。それに対して鉄のリサイクルに使用する石油はあと四0年ですので、石油を使って鉄をリサイクルするというのは資源的に合理的なシステムでしょうか。ましてアルミニウムのようにあと二00年以上は十分にあるという資源をとしての石油を使って回収するとすると持続性矛盾が生じます。

 紙を使うと森林がなくなってしまうのではないか?

 私たちは「紙を使うと熱帯雨林が消滅する」「紙を使うと森林が破壊される」と信じてきました。信じるためには本当は自分で調べて納得したものでなければいけないのですが、こればかりはうっかりと信じていました。テレビでは森林が破壊されている様子が映し出されますし、紙のリサイクル運動が盛んで、紙を使い捨てでもしたら怒られる生活をしていたからです。

 「私の会社は紙をリサイクルしています。ほら、名刺をご覧ください。この名刺もリサイクル紙を使っていますし、封筒もリサイクル紙です。私の会社はこのように環境に配慮した会社です。」

 名刺に「この名刺はリサイクル紙で作られています」と書いたものを使わないと肩身が狭いという風潮すらあります。

 今から良く考えますと、どうも胡散臭い話でした。「本当に神様を信じているなら人前でお祈りをしなくて良い」という話と似ていますが、本当に良いものはこれほどまでに卑屈に宣伝しなくても浸透すると思われるからです。わざわざ名刺のような小さなものまでリサイクル紙で作り、それをこれ見よがしに使うような手口はまともではないことにもっと早く気がつけば良かったのです。

 数年前、紙と森林破壊の関係を本格的に調査をしました。そうすると、

 「紙として使っているのは先進国の森林で、それはここ十五年間で三%ほど増加している。熱帯雨林を含む開発途上国の森林は紙の原料としては使っていない。その森林は十五年間で約六%ほど減少している。」

ということだったのです。著者にとっても多少の戸惑いがありました。

 紙を使うと森林が増える?紙に使っていない森林が減っている? これまでそれほど真剣に考えたわけではありませんが、それでもすぐには信じられないことです。この森林破壊と紙のリサイクルの関係は著者の「リサイクルしてはいけない」に詳しく書きましたので、それを参照して下さい。

 そして、紙にリサイクルが単に環境を守るということから離れて社会的な運動になったために、色々なことが起こりました。著者はかなり前から紙のリサイクルは「月給を使わずに遺産を使うから、子孫に申し訳ない」と考えて、紙はリサイクルに出しませんでした。そうすると「なんで紙をリサイクルしないのだ。環境を考えていないのか」と錯覚されたものです。真実は、紙ををリサイクルすると環境を汚し、ゴミを増やし、その上に子孫に残すべき貴重な遺産を使ってしまうのです。

 この紙のリサイクルが森林破壊と関係ないという問題は環境ばかりでなく、教育面でも影を落としています。紙のリサイクルは「ものを大切にしよう」ということを教える象徴的なものとして日本の小学校などで盛んに教育されて来ました。そのときに単に「ものを大切にしよう」と言う理由で教育が行われているのなら良いのですが、多くの場合「森林が破壊されるから紙はリサイクルしよう」と教えられるのです。

 子供は純情です。先生のお教えになることをそのまま信じて紙のリサイクルに一生懸命になります。それが「ウソ」だったとしたら子供はその後の環境の取り組みに真剣になることができるでしょうか?尊敬していた先生に対する尊敬の念を失うことはないでしょうか?そしてなによりも怖いことはこのようなことのためにその子供の心が曲がることです。

 教育者は教えることを慎重に吟味しなければなりません。少しでも自分が納得できない場合には「このように考えられているが、まだ私は十分に確信がない」と教えるのが適当です。そしてこの世の中は総てのことがわかっている訳ではないことも同時に教えます。小学校や中学校でそのような教え方をすること自体が難しいと思いますが環境は発展途上の学問であり、その教育は慎重であるべきでしょう。

 特に環境の教育は文部省の段階でも各学校でも極めて慎重に、色々な人の考えを聞いて長期的に取り組むことが望まれます。単に「ものを大切に」とか、「物づくりは良いことだ」というような短絡した結論を子供たちに教えるのはとても危ないのです。

 最近では「ものを大切にしてできるだけ少なく使おう」と呼びかけるのと同時に「物づくりが大切なので、ものを作ろう」という教育も進んできました。むしろ、これからの社会は二0世紀の世界のように「物づくり」に関心を持たず、ものから離れて「心の充足」に人生の答えを求めなければならない世界が訪れようとしているとも言えるのです。

 大人は「本当は紙のリサイクルは環境に良くないが、そう言っておこう」とか「本当は失業が怖いのだけれどもそれは言いにくいので、環境と言っておこう」というような矛盾したことをある程度心のなかで咀嚼することができます。しかし、子供は正直ですから「ものを作らない方がよい」と言いつつ、「ものづくりは大切」などという両価性(価値が正反対のことを同時に言う精神分裂症の一症状)は理解できないと思います。

 少し脱線しますが、環境という点ではすでに私たち大人は子供に対してかなり酷いことをしているように思います。
すでに都会では子供が自由に遊べる野原はほとんどありません。野原どころか昔は三角ベースや縄跳びを楽しんだ道路も、いつの間にか自動車に占有されました。「歩道」という言い方がありますが、本来、道路は「歩道」であって車の通るところではなかったのです。それを舗装し、車を優先したのは子供ではなく、大人です。

 かくして子供は家の中に追いやられました。

 都会でないところはまだ余裕があり、子供の遊ぶ空間があります。それでも全国的に町という町には子供の姿が少なくなりました。子供たちは大人が作った社会システムの影響を受けて塾やテレビゲームに専念しています。それらは子供が選んだことでしょうか?むしろ、私たち大人がそのような都会を作り、子供に遊ばせない仕組みを作ってきました。

 そんな中で「紙のリサイクル」など、ほんの部分的なことだけに自然と親しむことを子供に要求し、それができないからと言って「あなた、ダメじゃないの!」と叱ることができるのでしょうか?「最近の子供は……」という前に現在のような酷い環境を子供に与えたのは、私たち大人自身であることを考え直したいものです。

 「ものを大切にする」ということを子供に教えるためにリサイクルをする、という考えもあります。それ自体は正しいと思いますが、その場合は本当に「リサイクル」をしなければなりません。現在のリサイクル運動のように、実際はリサイクルをするわけではなく、単に「リサイクル箱に使ったものを入れる。リサイクルをするのは人に任せる」というリサイクルでは教育効果は疑問です。むしろ「環境に大切なことを他人にやらせる」ということを教えているようなものです。

(質問)なんのために砂漠を緑化するのですか?

 世界の森林は三五億haありますが、そのうち現在の人間が利用している森林はごく一部です。もし世界の森林のほとんどを利用できれば、人間が使用するエネルギーも物質もその大半を森林からえることができます。

 しかし、それはムリのようです。自然は人間のためだけに存在しているわけではないので、むやみに自然を利用することはできないからです。どの程度の森林が利用できるのかは森林の専門家でも難しい問題のようです。現在のところは森林の計画的利用が多少少ないので、少し利用度を上げてみて、その様子を見るのが一番良いといわれています。確かに自然に対して人間の思考力は大したことはないので、自然のような複雑で高度なものに対するときには、謙虚に構えるのが正解かも知れません。

 ともかく、森林の利用度の問題は自然をどのくらい人類が利用できるか、自然エネルギーは当てになるか、という環境の基本問題にとってキーポイントになる重要な課題です。その意味では森林をもっと積極的に利用し、人類がどの程度の自然を利用できるのか、あるいは自然を利用すると言うこと自体が何を意味するのかを考える必要があるでしょう。 

 砂漠を緑化するという運動があります。砂漠は砂だらけで人間は砂漠の中にいるとノドが乾きますし、作物もできません。ある時、著者は砂漠の緑化の研究会に出席しました。そこで電力会社の人が砂漠に発電所を作り、その発電所で電気を起こして海水を導き、淡水化して砂漠に水をまく計画を説明していました。確かに、計画は具体的でそれが完成したら現在一面の砂で覆われているところが緑豊かな大地へと変身する想像図まで示されました。

 講演が終わって、著者が手を挙げ次のように質問しました。

 「なぜ、砂漠を緑化するのですか?」

 発表者は大企業の部長さんでしたが、私の質問に対してその意味が分からずにポカンとされていました。しばらくして気を取り直して「砂漠を緑化すると食料がとれる。飢餓に苦しんでいる人を助けることができる」といわれました。その緑化計画は西アフリカを想定されていましたので、著者が「西アフリカは女性一人あたりの出生率が五.二人で、人口が増えて困っているのですが、人口を増大させて良いのでしょうか?」と質問しました。

 その回答は得られませんでした。砂漠の緑化が良いことは当たり前であり、何でそんな質問をするのかと最後まで訝っておられたのです。

 この問題は二つの大きな問題を含んでいます。一つは地球にとって砂漠は何かの役に立っているのか、それとも無駄な存在なのか、ということです。確かに人間とって直接的には砂漠は役に立ちません。作物もできませんし、迷い込めばノドが乾いて死ぬことすらあります。しかし地球としての砂漠の意義はまだ明確になっていないのです。第二の問題は地球の中に人間にとって直接的に役立たないものは人間の尺度で変えていってよいかとう問いです。

 地球は人間のもの?

 もし、地球が人間だけのものであれば直接的に役立たない砂漠は緑化したり、太陽電池を敷き詰めた方が良いかもしれません。しかし環境が砂漠を必要とし、人間も真の意味で砂漠を必要としているのなら砂漠を緑化することで、とんでもないことになる可能性があります。これまでの環境問題は、自然と人間の関係において人間が「地球は人間が勝手に処分して良い」と考えたことにもあります。その間違いを再び、何の不思議もなくやろうとしているのです。

 もし、地球の中で人間に直接役に立たないものは人間の勝手にして良いなら、砂漠の緑化を研究する前に日本の目の前にある太平洋を陸地にする研究をした方が良いでしょう。

 海は広い方が良いともいえますが太平洋は広すぎると思います。アメリカまで半分くらいの距離でもさして困らないでしょう。そこで、大陸棚で魚が捕れるところを別にしてハワイまで海の上に鉄板を敷いてしまえば陸地は飛躍的に増加し、日本は大国になります。いままでの小さな国より大国の方が良いと考える成長主義の人もいるでしょうし、砂漠の緑化をするよりずっと多くの食料が採れます。それを食料に困っているアフリカに無償で輸出してもよいのです。

 現実的にも、海洋に鉄板を張って陸地にする技術を大手の建築会社が開発しています。際限なく人間の住むところを大きくしようとしたらできない相談ではありません。しかしたぶん、日本の沿岸からハワイまで海に鉄板を張り巡らすのは私たちの将来にとって良いことでは無いとおもいます。

 自然との共存が第一です。その点では、砂漠には砂漠の意味がある、海洋には海洋の意味、森林には森林の存在価値があり、環境はそれらのものを必要とし、人間は良い環境を必要とすると考えるべきでしょう。これまでの二0世紀の人類の活動を振り返ると、自然を人間のもの、人間が勝手にしてよいものと考え、そして失敗してきたのですから。

 再び同じ様な間違いはしたくありません。

 風で電気を起こすと風が弱まる

 砂漠の緑化に似た話が風力発電でも見られます。

 ある新聞に風力発電の開発の状況やデンマークに於ける風力発電の利用の状態を紹介し、「日本電力の大半を風力発電でまかなえばよい」という解説がなされました。このような話題は時々、大々的に取り扱われます。たとえば太陽電池や海洋発電、地熱発電などがその例で、どちらかというと新聞社は比較的「自然エネルギー」に注目しているようです。

 風は太陽エネルギーが偏ったために発生した局地的なエネルギーの一つの形です。従って風力発電は「風というエネルギーを電気のエネルギーに変換するエネルギー変換操作」ということができます。ということは、エネルギー保存則が適用されますから、風から電気を取りだすと電気を取りだしただけ風が弱くなるということになります。また風から電力を取りだす時にも「変換効率」を考えなければなりませんので、もし、それが四0%とすると一0キロワットのエネルギーをもつ風から二キロワットの電力を発電しますと、三キロワットが熱となって無駄になり、結局、風は五キロワットと弱くなる計算になります。

 熱力学の原理と工学の効率から弱い風は電力に変換することは非現実的でなので、強い風が求められます。また風のエネルギーは毎日の太陽の光で発生しますので、太陽電池と同じようにエネルギー密度が薄いのが特徴です。しかし、風は局地的に激しく吹くところがあり、そのような所で風力発電を行うのは良い場合があります。

 風はなんのために吹いているのでしょうか?

 風が吹かなければ海から水は蒸発しません。もし風が全くなければ水面の空気は変わらないので一定の湿度分布ができ、それ以上びくとも動きません。海や川、そして陸地の湿気は採れず、雨は降らず、森の木々の間を吹き抜ける風はなくなり、洗濯物は乾かず、そして花の種は飛ぶことができません。現在の地球の生態系は「現在の風の量と力」が前提でできているのであり、風の量が減れば自然は変化すると考えなければいけません。

 風は自然のエネルギーです。だから「みんな」が利用しています。「みんな」というのは人間だけではなく、動物、植物、鉱物など私たちとともに生活をしているものすべてを意味しています。

 風力発電に関する多くの論評を見ると、人間は自然との関係でいかに人間本位であるかがわかります。「環境を大切に」「自然と共存」と言いながら、風は自分たち人間のためだけに吹いていて生態系とは無関係と錯覚するのです。「風力発電を増やせ」という新聞に掲載される長い論説が、風力発電の有効性を論理的に述べ、それが「自然に優しい」ことを強調します。しかし、風から電力をとることが生態系にどのような影響を与えるのか、どの程度までなら自然を守れるのかについて一行も書いていないのです。

 しかし逆説的ではありますが、人間もまた自然に一部であり、自然は人間を含めて自然であると考えると、人間が勝手に自然を痛めてもその姿こそが自然であるといえないこともありません。多少詭弁じみたこの議論も環境問題を深く考える上では、良く噛みしめた方が良いように思います。

 自然と人間の関係はとても複雑で一つの論理で全部を通して説明することは困難なのです。そしてその中には人間の価値観や自然観など独特のものが含まれるからです。現在のリサイクルや環境問題に対する議論の大きな欠陥は自然と人間に関する複雑な関係を見逃していたり、複雑であることからおこる多面的な現象や見方を単純にしようとすることろにあります。特に、社会的な運動は単純な方向に進みがちです。
 かつて人間社会は自然界でおこる複雑で理解できないことを「魔女の仕業」などという単純なことにすり替えて多くの犠牲者を出してきました。「鬼畜米英」と叫んで戦争に突入したのもその一つの例かも知れません。しかしものを単純化してある方向に持っていき、その結果、真面目な多くの人が犠牲になることを、もっと真剣に考えなければならないでしょう。

 リサイクルはゴミの量を増やし、ゴミの分別は日本を走るゴミのトラックを大幅に増やします。トラックからの排ガスは増え、ゴミのもつ毒は薄く広くまき散らされます。そして、日本はリサイクルによって徐々に汚染された列島となるでしょう。