環境と景気


3.  環境に良いものは景気も良くする

 環境が悪くなっても経済力が高まり、国際的な競争力がつけばそれで良いではないかとの考えもあります。たしかに、リサイクルは環境より経済面を重視している活動という側面を持っています。この章では、リサイクルと国際貿易を中心に環境問題から離れてリサイクルを考えてみます。

3.1.  税金を使う産業は環境に悪い

 二000年四月から容器包装リサイクル法が完全施行されました。これにともなってペットボトルをはじめとして紙の包装用紙に至るまで、十数ヶの分別が始まりました。この法律の骨子は、「消費者が分別、自治体が回収、メーカーが再生品化」という仕組みで動かすということです。

 かなり良く考えられた法律です。まず、消費者は自分の使ったものを分別する責任があるとされます。いままで使い終わったものはゴミとしてだし、それを処理する費用も税金として支払っていました。しかし、地球環境を守るためという理由で消費者は「ゴミを分別する義務がある」「容器は水道と洗剤を使って洗うべきである」ということになりました。

 苦労するのは消費者、自治体、そしてメーカー。誰が?

 ここでは二つのトリックがあります。まず第一にゴミを分別しても資源になりませんし、分別したゴミを運んだり再生したりするのに、「ゴミ自身を捨てるより多くの資源を使い、環境を悪くする」のですから、ゴミを分別して地球環境を守るというのは間違っています。

 第二のトリックは家庭にいる人は「タダで暇な人」であるという想定です。主婦や家庭にいる人は時間がたっぷりあり、どんな無駄なことをさせてもかまわないという基本的考え方があります。これは著者がそう思っているということではなく、法律を作るときに使ったLCAという環境負荷の計算でそうなっているのです。

 もし、分別を働いている男性にやらせたら、とてもできない計算になるのです。つまり容器包装リサイクル法は人間の活動の価値を二つに分け、家庭の主婦の生活は無価値であり、勤め人の生活は社会に貢献しているとしているのです。

 容器包装リサイクル法の第二の責任者は自治体です。地方自治体はこの法律に従ってペットボトルや紙の容器を収集します。分別する人も大変ですが、もちろん集める人も大変。しかも、そうして集めても資源にも何にもならないのですから悲劇です。プラスチックは集めても再生して再びプラスチックの製品として使えませんから、遠くの製鉄所に運搬して石炭の変わりに使ったりしています。

 分別は「遠くに運ぶ」という点で環境には悪いものですが、さらに石炭を使えばキログラム炭素当たり約五円ですむ製鉄に、平均キログラム当たり二百五十円をかけて使うのです。使う製鉄所の方は、ゴミキログラム当たり自治体からお金をもらうので文句はありませんが、支払う市民の方は辛いものです。

 しかも、製鉄所に持っていって多少は環境に良いのならそれでも我慢ができますが、輸送の燃料などを計算すると実に五十倍以上の環境負荷になるのです。さらに分別したプラスチックは溶鉱炉に一緒に投入されます。一体、洗剤でゴミを洗い、分別した努力はどこで報われているのでしょうか?

 「環境の為なら費用を払っても良い」という発言を時々聞きます。専門家がそう言うときには真実がそうではないことがわかっていて発言するのですが、環境を守ろうとしている多くの人は本当にそう思っている場合があります。

 環境を良くすると景気も良くなる

 著者がこれまで計算してきたほとんどの例では「環境負荷と廃棄物の処理にかかる費用はほぼ同じ」ということでした。そしてこのことを発言すると異論を唱える専門家はいません。理由は簡単です。廃棄物の処理にかかる費用の内訳は、本著にも何回か書きましたがトラックのガソリン、トラック自体、タイヤ、トラックの運転手の弁当、飲料、倉庫の建設、管理用のパソコンなど、すべて「物質とエネルギー」なのです。

 家庭でも工場や会社でも「経費がかかる」ということは何かものを買うことであり、何も買わないのに経費がかかることはありません。もちろん、社員を減らして自動化したり、社員の変わりに臨時のアルバイトを雇って人件費を倹約することはできますが、このようなことは経理的な操作であり、環境を守るということには関係ありません。もし、そうではない計算を見かけたら主婦の労働がタダになっているかを調べるとすぐわかります。

 「ゴミの帳簿の付け替え」で示しましたように環境問題は分類の問題ではなく、ゴミの総量を減らしたりすることであって、ある会社のゴミを下請けに出したり、税金で処理すれば0になるということではないのです。

 実は、「環境負荷が経費とおなじ」ということは重大な意味を持っています。つまり、もし日本が「環境を守るためには多少の経費もやむを得ない」と考えたとしたら、それは「多少の経費がかかるので環境負荷はそれだけ増える」ということを意味しますし、また「多少の経費がかかるということは国際競争力を下げる」ということでもあるのです。

 つまり、日本の環境を守ることは日本の経済を強くすることと同じなのです。不能率なことはそれだけ環境負荷になり、日本の産業と環境を痛めます。税金を投入すると言うことは不効率な産業であることを示し、それをすることは環境を悪くし日本の経済発展を阻害します。

 かつて特別な圧力団体のために大きな税金を支払ったことは多くありました。そしてやがてそれらの産業は衰退していきました。税金を使うような産業が環境に良いはずはありません。

 容器包装リサイクル法の最後の責任者はメーカーです。メーカーもある程度の負担を強いられますが、これも不合理な経費ではあります。しかし、リサイクルするために支払う主婦や自治体の負担に比較すれば軽い方です。それでも小さなメーカーなどはこの負担が厳しいところもあるでしょう。もし、負担が日本の環境を良くすることにつながれば良いのですが、悪くするのですからメーカーといえどもやりきれない負担であると思います。

 「経済活動と環境は一致する。一致しない計算はどこかを無視している」ということは明確に言えます。従って、私たちは「環境を良くしよう」ということと「景気を良くしよう」ということは同じことです。決して不能率な税金を使う産業を応援してはいけません。


3.2.  リサイクルで国際貿易は破壊する

 日本の家庭電化製品の多くが海外で生産されています。主に東南アジアでテレビなどが作られます。日本企業が日本で使うものを東南アジアで製造するのは原料費と人件費が安いからで、そのおかげでテレビを三万円程度の安い値段で私たちが買えるのです。日本で製造したらそれ以上の値段になるので、日本で作らずに東南アジアで作る。

 そのテレビを日本で一0年使い、寿命が来たところでリサイクルに回すと仮定します。テレビのリサイクルというと漠然と「テレビを修理したり、部品を交換したりして、またテレビに使うのだな」と思っている人もおられると思います。しかし、現実には材料が劣化しているのでリサイクルは無理ですが、ここでは「リサイクル社会が成立する。従って、材料は劣化しないので再びテレビに使うことができる」と仮定します。まずこの仮定のもとで「リサイクルと国際貿易」の問題を考えます。

 日本で使用したテレビは日本国内のリサイクル工場に回し、キャビネット、ブラウン管、そして電子回路類に分けてそれぞれ材料を取りだし、その材料で新しいテレビを作りますと、価格はどんなに低く見ても三0万円程度になります。電気製品販売店に新品の材料を使用した三万円のテレビと、リサイクル原料を使った三0万円のテレビが並んでいたとすると誰も三0万円のテレビは買わないでしょう。
 
 日本で使ったテレビはどうするのか?

 日本で使ったテレビをリサイクルできないとすると、リサイクル社会を築くためにはどうすれば良いのでしょうか?解答は二つあります。一つは廃棄されるテレビを再び東南アジアに持っていき、そこで捨てるのです。一0年使用したテレビはもう材料が劣化して使えませんから、もともとリサイクルできません。

 焼却をしなければ、捨てるしかありませんが、捨てる場所がないので、外国に持っていく方法です。もう一つは東南アジアに運んで修理して販売する方法です。日本では販売できないようなテレビでも所得の低い東南アジアでは使うかも知れないからです。

 著者はこの二つの方法のいずれも日本の経済力を弱め、尊敬されない日本になると考えます。

 最初の方法、つまり日本で使ったテレビを東南アジアに持っていって廃棄するというのは国際法で禁止されています。一九八九年にスイスのバーゼルで調印されたバーゼル条約という条約があり「有毒廃棄物の越境禁止」が定められているからです。テレビには少なくとも二つ以上の有毒物が含まれています。一つはブラウン管やハンダに使われている鉛、もう一つは難燃剤として使用されているハロゲンとアンチモンです。さらにヒ素やその他の微量な有害元素が含まれています。そのため違法を承知で輸出しない限り、使い終わったテレビは国外には出せません。

 しかし、すでに電機メーカーは鉛を使わないハンダを研究していますし、難燃材料も「非ハロゲン型」が開発されつつあります。少しずつ改良されていくと、テレビにはあまり毒性のものが使われないようになり、廃棄するために東南アジアに持っていこうとする動きが出るかも知れません。

 もう一つの方法、つまり修理して販売するという方法も検討されるでしょう。それでも、自動車はある程度趣味で買い換えたりするので、修理して使えますが、テレビや電気洗濯機などの家庭電化製品は一0年程度使用したものはとても使える状態にはありません。しかも修理する代金などを考えると販売が適切ではないと同時に、最初の方法と同様にお金があるからと言って日本で新品を使用し、東南アジアの人に中古を押しつけることも著者の気が進まないのです。

 二0世紀の幕開けのころには砲艦外交といって軍事力を背景に強引な外交を展開することができました。その結果、イギリスなどが世界に軍艦を派遣し武力で多くの国を支配してきました。支配する方は良いのですが、支配される方はたまりません。

 日本は第二次世界大戦の時、アジアの国を欧米の植民地支配から解放しましたが、その代わりに日本軍が酷い統治をした経験があります。それは日本人がアジアがそれまで植民地としてどれほど苦しんできたかを知らなかったということもあります。欧米によるアジアの国に圧迫の典型であるアヘン戦争に思いをはせる必要があります。

 一八三八年の春、アヘンの密貿易に手を焼いた清の道光帝は全国から有能な人材を登用しました。その一人であった林則徐は皇帝の信頼を受けてアヘンの禁止に乗り出します。相手になる商人はイギリスを中心とするヨーロッパのアヘン船であったので、林則徐の強力なアヘンの取り締まりは当然、アヘンで利権を得ていた人々との間に様々なトラブルを呼び、遂にアヘン擁護側のイギリス艦隊の出撃となったのです。

 イギリス政府は、アヘン貿易を守るという大義名分の立たない戦争に乗り気ではありませんでしたが、それでも結局、イギリス商人の利害を守るために艦隊の派遣を決意しました。その出陣決定の直前、イギリス下院では青年代議士グラッドストーンが政府の批判演説を行ってます。

 「清国にはアヘン貿易を止めさせる権利がある。それなのになぜこの正当な清国の権利を踏みにじって、わが国の外務大臣はこの不正な貿易を援助したのか。これほど不正な、わが国の恥さらしになるような戦争はかつて聞いたこともない。大英帝国の国旗は、かつては正義の味方、圧制の敵、民族の権利、公明正大な商業のために戦ってきた。それなのに、今やあの醜悪なアヘン貿易を保護するために掲げられるのだ。国旗の名誉はけがされた。もはや我々は大英帝国の国旗が扁翻と翻っているのをみても、血湧き肉おどるような間隙を覚えないだろう。」

 蒸気機関と鐵の生産力で有頂天になっていた当時のイギリスにもグラッドストーンの様な正義の人もいたが、結局、イギリスは政府の決定通り遠征軍を極東に送ることになったのです。

 戦争は約二年に及び、最後の決戦が一八四二年、四月から五月の作浦と鎮江で行われました。作浦の戦いでは、イギリス軍の戦死九名に対して、清軍は女子供を含み、イギリス軍の埋葬者だけで千名。イギリス軍は好んで女性、子供の殺戮をしたわけではありませんでしたが、戦いは圧倒的な火力を持つイギリス軍と貧弱な清軍。実際は、戦いと呼べるようなものではなく、多くの女性子供が虐殺されたのです。また、鎮江ではイギリス軍の戦死者三十七に対して、千六百人の清軍が死亡。まさに圧倒的な火力を使っての中国人の虐殺でした。

 しかも八月には清は降伏しのたで、香港の割譲、戦費など二千百万ドルの賠償を支払うことになったのです。勝てば官軍の時代。アヘン戦争のきっかけやその大義名分がどうであれ、勝った方が正しいのですから、イギリスは香港を手に入れ、清国は自分の国を荒らされ、賠償金まで支払うことになるのです。他国にアヘンの貿易を迫り、アヘンの密輸を認めないと言って戦争を仕掛け、圧倒的な力で虐殺し、そのあげく国土の一部を取り上げ、金まで徒労というのだから、まさに世にも醜悪な江寧条約でした。

 二0世紀の後半には軍事力でこのような酷いことはさすがに難しくなりましたが、現在の日本が開発途上国に対して行っている国際協力や貿易はこのような砲艦外交に似たところがあります。単に、昔の「軍艦」が「資本」というなのより抽象的なものになっただけとも言えるのです。

 しかし、ある意味では国際関係は冷酷とも言えます。そして現実にもそのように進んできました。しかし、二一世紀はおそらくこのような考え方を変えなければならないでしょう。二国間協力は本当に二国間で親密は協力をすること、テレビを作ってもらったら、それを購入するだけではなく、その国にも相当な台数のテレビをおいてきて、テレビをみる楽しみを共有することが求められるでしょう。まだそうなっていませんが萌芽は見られます。先進的な企業では開発途上国に工場を作り、その製品を日本に輸出するときには現地の生活程度をあげるためにかなりの協力をするようになりました。

 すでに、世界はそのように進もうとしているのに、「リサイクル品を中古品と称して売れないか?」「開発途上国だから古いテレビも我慢して見るんじゃないか」などという考えでは日本は信頼おける貿易相手にはならないでしょう。

 リサイクル社会では国際貿易はできない?

 このバーゼル条約の問題を突き詰めると、リサイクル社会と国際貿易の基本的矛盾に突き当たります。現在の国際貿易が世界の経済発展に大きな貢献をしているのは議論の余地がないでしょう。また貿易は環境という点でも貢献しています。資源のあるところでできるだけ精製したり加工することは輸送エネルギーを小さくするというメリットがあります。無駄なものを一緒に運ぶより相手の国で使うものだけを運ぶことができるからです。

 また技術的に優れた国が生産を分担したり、世界で少ししか使わないものをある国のある会社が分担して集中して製造するのは環境的にも優れているからです。事実日本の中小企業の中には優れた技術を持った会社が多く、「うちの会社のこの製品は世界の七0%のシェアーを持っている」ということを誇りとして製造に励んでいるところが多いのです。

 しかし、リサイクル社会を構築するとこのような国際貿易はかなり大きな打撃を受けます。最初は資源の産出国が資源を産出してそれを精製し、台湾に送ったとします。台湾は電子産業が盛んで特にコンピュータ用のマザーボードなどは世界のほとんどを押さえていると言っても良いほどです。そこでマザーボードが製造され、韓国に送られたとします。またハードディスクはアメリカのIBM社のものが一番性能が良くて安価なのでそれを使ってコンピュータが韓国で組み立てられ、日本の輸入されたとします。このように「多国籍部品」を使って製品を組み立てる方法は今後ますます盛んなるとおもいます。

 さて、多国籍部品をつかって製造されたコンピュータを五年ほど使って廃棄物としてリサイクルに回すとしたら、どの国に回すのでしょうか?日本で購入した人は、そのコンピュータを分解してマザーボードは台湾、ハードディスクはアメリカ、そしてキャビネットやワイヤーは韓国に送るのでしょうか?それぞれにある程度の有毒物が入っているのでバーゼル条約で越境が禁止されます。かといって、日本には適切なマザーボードやIBM形式のハードディスクのメーカーがありません。

 それではそこに使われている材料を取りだそうとしてもキャビネットに使われている鉄板は回収できますが、後はあまりにも他種類の材料があまりにも細かく使われているのでとても材料を回収することができません。

 このように「リサイクル社会」と「国際分業や国際貿易」はもともと矛盾しているのです。現在の工業界がこの矛盾をどのように解決しようとしているのか、これも著者がここ数年、質問してきたのですが、大きな会社もさっぱり解答がありません。もともとリサイクル自体がムリなことなので解答がないのは仕方がないのですが、それでも「リサイクルする」と言っているのが不思議です。

 著者は資源の国際移動と人工鉱山によりこの矛盾を解決することを提案します。


3.3.  資源だけを輸入してゴミは外国に

 日本にはすでに主要な資源を採る鉱山はなくなりました。日本ほどの工業国が鉱山を持たないと言うのは不思議なことですが、事実です。昔の日本は金属材料の輸出国で、特に中世の日本では中国地方から多くの金属材料がアジアに向けて輸出されていました。

 国内に鉱山があることは資源的に独立できるので素晴らしいことですが、色々な問題も発生します。その一つが足尾銅山の鉱毒などで見られる鉱山周辺の汚染です。先に書きましたように人間が使う資源には人間に有用なものと有毒なものがあります。そして「有毒」なものが「無用」であるとは限りません。人類にとって「有害で貴重」なものが多いのです。

 ともかく日本には資源がないので、外国に資源を求めます。そして外国で資源を掘ってもらい、同伴して出てくる有害であまり役に立たないイオウのようなものは現地においてきます。典型的なものにチリの銅鉱山があります。銅の鉱石としては昔は「自然銅」といって還元状態のピカピカした銅が直接採れることもありました。日本の島根県にある石見銀山などがそれでした。しかし、最初に自然銅は堀尽くされ、そのうち酸化銅になり、最近では銅はイオウと同伴する形の鉱石になってきました。銅精錬の場所によっては銅に直接的に同伴しているイオウは日本に来ますが、それでも基本的にイオウを同伴する銅鉱山の周辺はイオウや他の有毒金属に汚染され、荒廃します。その荒廃は使用量が明治のころと比べて桁違いに大きいのでひどい状態になるのです。しかし、日本に有力な鉱山がない現状では、もはや日本人は自分たちの使っている鉱山の鉱毒を実感することはできません。

 日本が高度な技術をもっていて銅鉱山やその他の鉱毒から解放されているのは、少なくとも日本にとって良いことのように思えます。しかし著者は環境全体を考えるとそうとも言えないと感じるのです。

 人間は文化的生活を送るのに古代から多くの資源を使ってきました。それは人間以外の生物も同様で霞(かすみ)を食べて生きていけるのは仙人だけです。資源を獲得するためには特別な組成の鉱石や原油が必要で、それらは一様に汚いものだったのです。たとえば現在ではすでに新潟県の油田はなくなりましたが、アメリカの小さな油田地帯に行きますとコールタールのようにべとべとして黒い汚いものが一面にまき散らされています。特に管理が悪いわけではなく、原油自体が汚いものなので長い採掘の歴史のなかで徐々に汚染されて行くのです。

 水銀も人間にとって貴重な資源でした。毒物でしたが金属で液体というとことや多くの金属と結合してアマルガムを作ることなど非常に特徴的で有用な金属です。身の回りにも最近まで「水銀温度計」というのがあり、水銀なくしては温度も正確に測定できなかったのです。そういう世界に住んでいますと、人間は自分が綺麗なものだけではなく、汚いもののお世話にもなっている、必要なものを得たいと思ったら汚いものも同時に受け入れなければならないことを肌で感じるのです。

 それがない日本。判断が狂ってきます。自分の廃棄物を他人の所に捨てる、自分が工業製品を使っているのにその工場を毛嫌いする、ほとんど土と同じ組成で全く安全なものなのに廃棄物の処理からでたものだというだけでどこか自分が見えないところに押し込めるなどの行動に出ます。そして、廃棄物の基準を決めるときにもそれが障害になります。

 もし日常的に毒物と有益なもののバランスで生活していれば、どの程度の毒物を受け入れることとどの程度の文化的生活ができるかというバランス感覚がありますから、「絶対安全」などという非現実的な議論は出てきません。しかし、毒物を見ないようにしているので極端に潔癖性になるのです。

 このような環境は日本にとってあまり有益な状態ではないと思います。正しい判断をなくし、現在のリサイクルのように現実を喪失した状態に陥るのです。


3.4.  リサイクル社会の結末

 リサイクル社会というのは結局どう考えるべきでしょうか?

 まずリサイクル社会の前段階として「大量生産、大量消費」の世界がありました。もし資源が無限にあり、地球が大きく、世界人口があまり多くないという状態ではよい社会であったかも知れません。資源を湯水のように使い、それでできた製品で豊かな生活を楽しみ、さらに使ったものはそのままどこかに捨てても地球が処理をしてくれるということなのですから、悪いこととはいえないでしょう。

 しかし、もちろんこれは永久には続きません。一つには地球の人口が増えたと言うことです。一九世紀のはじめには七億人であった世界人口は二0世紀のはじめには倍の一四億人になり、二一世紀はその四倍の六0億人でスタートを切ろうとしています。

 スマトラ島に棲むタイガーの数は、スマトラ島に住む人間の数が多くなると減少し、その関係はきれいな反比例の関係にあります。つまり、人間の数が少なければタイガーは殖えるし、人間の数が多くなるとタイガーは減るということです。

 人間が生活するとその分、これまでの自然は徐々に破壊されていくという現実を示しているのです。それは自然というものの性質上、仕方のないことです。そして人類だけが他の動植物に対して比較にならないほど繁殖したことが難しい問題を起こした一つの原因となっています。

 もう一つの要因は、人間一人一人が使う物質やエネルギーも増えてきているということです。昔は自動車は使いませんでしたし、住宅も簡単なもので作られていました。テレビや冷蔵庫もなく、洗濯機の変わりに洗濯板、もちろんエアコンなどはありません。

 それに対して現代の私たちの一人一人が使う物質とエネルギーの量は膨大です。私たちは長い間、自然を「大自然」といって尊敬し、目の前の大海原や富士山に対する畏敬の念を禁じ得なかったのですが、人間の活動が大自然を凌駕したのです。驚くべきことで、まだ実感がわきません。人間は今でも自分たちの方が大自然より小さいと錯覚しています。そこで、使い放題に使い、それを無造作に捨てているので、地球が汚れてくるのは当然です。その結果、オゾン層の破壊、広域的な汚染などが目立つようになってきているのです。

 一九七0年代の初頭、国連関係機関の主導で人類の将来についての計算が行われました。実際に計算をしたのは当時新しい学問として脚光を浴びていたシステムダイナミックスという手法をつかってMIT(マサチュウセッツ工科大学)のメドウス博士でした。その結果、驚くべきことが判ったのです。

 人類は二一世紀の半ばでほぼ三0億人が餓死する。それは環境が汚染され、食料がなくなり、資源が枯渇するからだ、という訳です。この報告書がローマクラブから出されたときは誰もがビックリしあわてふためいたものです。

 しかし、少し経って冷静になると「宇宙船地球号」という考え方が広まりました。地球は有限のものであって決して無限の存在ではない。広い宇宙から見るとぽつんと浮かんだ宇宙船にしか過ぎない。宇宙船の中で人類は生活しているのだから当然、資源も限りがあるだろうし、廃棄物を宇宙船の中に捨てていれば汚染もされるだろう、ということです。「神様の後知恵」というように現実に資源の枯渇が近くなり、汚染が始まり、そして計算をしてみると簡単な原理が判ってくるのです。

 それから三0年、人類は頭で「私たちは宇宙船地球号に乗っているのだ」ということが判ったのですが体が言うことを利かない、という状態にあります。それが現在の世界であり、日本でもあります。

 そこで第二の方法が思いつきます。それが「リサイクル」でした。「ものは使いたい。しかし地球は有限だ。それなら使ったものを繰り返し使えば、相変わらずものを使える」という発想です。リサイクルの根底には大量消費、大量生産があるというのはこのような発想をいっています。やはり人間は倹約をしたくないのです。つまりリサイクルという思想は「使うものは減らしたくない」という思想です。使うものを減らせば廃棄物問題も、資源問題も無くなるのですから、リサイクルというのは自分で大量に物質を使うのを止めないことが前提になっています。

 しかし現実は人間の希望通りにはなりません。リサイクルは捨てるより労力がかかります。そして、物質を大量に使う経済体質は二十一世紀の世界では国際競争力を持たないでしょう。二十一世紀には資源の枯渇が予想され、ものの価格を上昇しますので、国民一人当たりの物質消費量が少ない方向になるでしょう。物質の使用量が少なくなり、みんなが製品寿命限度一杯に使うようになると、資源や環境の問題は自然消滅します。

 大量生産、大量消費、そして大量リサイクルという際限ない「増幅サイクル」の中で日本は未来を見いだせないのです。本当に私たちの未来を拓くには「少量生産、少量消費、そしてリサイクルをしない」ということであり、それこそが環境を守り、日本の経済力を高め、景気を永続的に回復させる解決策なのです。そうすれば現在の矛盾した「マッチポンプとしての環境問題」はなくなると思います。