リサイクルと汚染拡大

4.  日本を汚染してリサイクルを進める人たち

 毒はたまる、ゴミは増える、国際貿易はできない。三重苦にあえぐリサイクルですが、それでも「リサイクルが良い」と多くの人が思っています。なぜ錯覚が起こったのかを社会的要因と専門家の問題に分けて整理をします。

4.1.  自分勝手な環境運動

もののうしろにものよりおおいもの

 この早口言葉のような呪文のような文章は、現代の日本人には見えない物質の「背後霊」を示すものです。今、自分の前に牛乳パックがあるとします。牛乳を飲み終わると牛乳パックが空になるので、それを何とか使おうと考えたりします。時には牛乳パックの利用コンテストのようなものも企画されています。「ものを大切にする心」という点ではそれも評価できますが、論理的には不合理なことです。

 私たちの身の回りには多くの「もの」があります。もし著者が製品の製造現場を見たこともなく、その製造過程を理解することもできなければ、「もの」は見たままの「もの」としてしか見えないかも知れません。しかし、一つの製品を作るためには、その製品の何倍もの材料やエネルギーを使用するのが普通で、それらの補助材料、副原料、装置、エネルギー、そして水などはその製品の形や機能の中に組み込まれ、すでに私たちの所に届くときには「ものやエネルギー」としては見えないのです。

 ここでもペットボトルの例を出しますが、ペットボトルは考えるのが簡単なだけで、他のものも基本的には同じです。
例えば、目の前に四0グラムのペットボトル一本があるとします。アラブの国から運び出す時、原油四十グラムは高くても1円なりません。それを船積みし、タンカーで運搬し、精油所にためて、クラッキングし、・・・・・・・・といくつかの過程を通り、物質とエネルギーを使い、ついにペットボトルにすると7円以上になります。つまり、この段階で考えても、背後霊は6円分だけあり、それはペットボトルを回収しても回収できるものではありません。

 さらに、ペットボトルを飲料工場に運搬し、充填し、コンビニエンスストアーに運ばれるころには40円程度になっています。その間の33円も背後霊です。つまり地球規模で考えたときにはペットボトルは一円のものであり、私たちの前に現れたものは背後霊が39円ついているとも言えるのです。

 これをリサイクルしてペットボトルの原料であるポリエステルのペレットにしたときに、もともとの物質と背後霊のうち、どれが再使用できるかというと、最初の一円とボトルに成形するまでの4円程度が救われます。したがって、ペットボトル一本を見たときに、私たちの「環境鑑識眼」は「再使用できるものが5円分」「リサイクルしても回収できないものが三十五円分」と見えることになります。

 つまりリサイクルが環境に悪かったり、資源を無駄使いするのは目の前にある物質の約八分の一しか回収できないという現実があるからです。そして、その全部を回収できる訳ではなく、半分も回収できれば良い方ですので、十六分の一などと言う数字になるのです。

 自動車でも二%、それは仕方がない

 私たちの生活で使うもので、本当の目的のために使われる割合はとても少ない、ということを示すために、もう一つ別の例を示します。

 自動車というのは良くできた機械で実用的にもとても便利ですし、また乗り物としての楽しみもあります。しかしエネルギーや物質の使い方としては感心したものではありません。鉄やプラスチック、ガラスなどの使用量がかなり贅沢であることは見ればわかりますが、自動車全体として見て、「人間の移動に使ったエネルギー」としての使用効率は僅かに二%にしか過ぎないともされています(Claude Fussler and Peter James)。

 自動車好きの人にはムカッとくる数字かも知れませんが、現実にはこの程度です。「だから自動車は悪い」とは考えてはいけないと思います。自動車は明らかに人の生活を豊かにし、楽しみを与え、孤独を癒やし、あるいは雪の降る日に病人を寒い思いをさせないで運ぶことができるからです。

 ここで言いたいことは、人間は自分の利用しているものの背後霊は見ることが難しいということです。自動車にのって移動する時に、自分が移動するために消費されるエネルギーは、使われるガソリンの僅か二%しか利用されていないとはとても思えないのです。この計算も、原油からガソリンを作るときの背後霊は計算していません。それを計算するとさらに効率は悪くなります。

 このような背後霊の傾向は、特に製品の加工度が上がってくると「もの」の比率がさがり、「背後霊」が大きくなる特徴があります。

 たとえば「カメラ」を例に挙げますと、新しいカメラを研究開発する時に使った研究費や特許の費用、それに携わった人。新しい製品を作る工場を設計した人、建設と試運転。そしてテスト生産の製品で市場開発をした営業マン。いよいよ生産となっても直接製造する人の他に管理、経営、宣伝など膨大な努力が必要です。

 目の前にある「カメラ」は確かに一つのものですが、そのうらの背後霊はすでに過去に失われています。

 これがマスコミとなるともっと極端です。五分のテレビ番組を作るのに一時間以上も録画することは普通で、そのために膨大なフィルム、人手や交通費を使い、その五分に凝集します。雑誌の記事でもそうです。記者が記事をとりに走り、速記者が膨大な速記をとり、何回も書き直してやっと一つの記事ができます。何ページかの記事のうらには多くの背後霊がついています。

 背後霊は人間にとって見えにくいので、昔の人はそれを「ことわざ」や「しきたり」として覚える方法を採っていました。生活の知恵の類です。例えば、「ご飯を残してはダメですよ!お百姓さんに申し訳ないでしょ!」と教わったものです。今では「お百姓さん」という言葉自体が差別語で使えませんが、昔そう言ったのは確かです。

 この言葉の中には

 「あなたはご飯粒を見てご飯粒にしか見えないでしょうけれども、ご飯粒にはお百姓さんの必死の努力が背後霊としてついているのですよ。もしそれを無駄にしたら食料を一所懸命作っている日本全体がダメージを受けることなのです。だから背後霊をみてご飯粒を残してはいけません!」

という意味が込められているのです。

 現代はしきたりやことわざで理解することなく、総てを自分の頭脳で合理的に理解し、判断する時代です。それはそれで良いことですが、昔の知恵がどういうことを意味しているかは参考になります。さらに現代の工業製品や精密な製品は付加価値が高く、それだけに原料に使うものより補助的に使う物質やエネルギー、労働力の比率が高いのが普通です。一つの製品を完成するのに使う膨大な研究費もまた環境の負荷になっているのです。私たちは単に自分たちの目で見えるものだけに注目することなく、その背後に潜むものを見抜く力を養いたいものです。特に環境を大切にする活動をされている人は、作った人たちの苦労を直接感じる心が期待されます。

 背後霊が見えないもう一つの原因は現代社会が「自己中心的」あるいは「現実喪失的」になっているからともいえます。それと関連した例としてリターナブル・ビンについて示します。

 重たいビンを誰が持つ?

 リサイクルの議論は金属材料やプラスチックに集中していてガラスや陶器、コンクリートなどは産業廃棄物の議論では盛んです、一般的にはそれほどではありません。その中で、ペットボトルやアルミ缶の飲料との関係で「リターナブル・ビン」が取り上げられています。ものを使い捨てにしない文化はもともとあったので、たとえば江戸時代に油を買いに行くには油を入れる容器を持参したし、最近までビールや牛乳瓶はガラスビンが使われていました。

 ガラス瓶は丈夫だし、殺菌や洗浄が容易なので繰り返し使えます。それを現代風に言い換えたのが「リターナブル・ビン」。ビール瓶はアルミ缶ではなくビンにして酒屋に返せば良い、牛乳も紙パックを止めて牛乳瓶を復活させた方が良い、ということです。確かに環境という点では現在のアルミ缶や紙パックより優れている可能性があります。

 「可能性がある」と言ったのはアルミ缶をビール瓶に変えて飲み終わったら酒屋に持っていき、それをメーカーに返して洗浄し、再びビールを詰めて販売するシステムと、ビールはアルミ缶にして使い捨てにする方式とどちらが環境の負荷が少ないかは即断できないと言うことです。アルミ缶は技術的にかなり優れたもので、資源的にも十分で、しかもアルミニウムは「土」に似ているので人体への害もあまりありません。それに対して、ビール瓶をリターナブルで使用するとすると酒屋さんは車を飛ばして取りに来ますし、メーカーへ運ぶのにもある程度のガソリンや軽油を必要とします。洗浄や乾燥にもエネルギーを使いますから、人件費も計算にいれたLCAがどちらが環境に良いという結果を出すか興味のあるところです。

 牛乳瓶も同じです。確かに牛乳パックを使うよりも牛乳瓶にして、昔のように朝、牛乳配達が個別配達をして、飲み終わったらまたそれを運ぶ方が環境に良いように思います。ある程度年輩の人は必ずそう思うでしょう。しかし現代社会で重たい牛乳瓶を朝早く誰が運ぶのでしょうか?そしてマンションや高層住宅が多く、「牛乳瓶を入れる箱」がおきにくい構造の中でシステムとして成立するでしょうか?

 ビール瓶でもそうですが、リターナブル・ビンが使われる社会は、人件費が安く酒屋には丁稚さんが、牛乳販売店には配達夫がいた時代です。現代では、またその役割は主婦が担うことになりそうです。重たいビール瓶や牛乳瓶を抱えて汗をかいている主婦の姿が目に浮かびます。そして、ビールを飲むのは他の人だったり、牛乳は子供が飲むかもしれません。

 リターナブル・ビンが現在でもある程度成立してるのは町の飲食店などで、毎日決まった量のビールを持ち込み、それを回収するのが成立の条件です。大量に一カ所にありますし、種類も多くはありませんので分離工学の原理に反することはありません。さらにビール瓶は使って悪くなる率も少ないので、材料工学の原理もOKです。そして飲食店で飲むビールに汚いものを入れたり、なにに使ったか分からないこともないので、毒物の混入の可能性もグッと少なくなります。

 一見して人間的であり、環境に優しいと感じられるリターナブルには自己中心的な要素が潜んでいることがわかると思います。

 クーラーは地域暖房である

 自分の行為を見直すのはあまり良い気持ちはしませんが、最後にクーラーに関する錯覚を整理して、リサイクルの錯覚を終わりにします。

 真夏に暖房をつける人はいないでしょう。しかし、現実が自分の感覚で捉えるのがムリで、自分と他人のことが良く判らなくなり、そしてそれをじっくりと考える暇もない現代では真夏に暖房をつける人の数が増えているのです。

 エアコンというものがあります。都市がコンクリートに囲まれ「ヒートアイランド」と呼ばれるようになって特に夏のエアコンはなくてはならないものになりつつあります。そして一昔前まではほとんどの車にはクーラーはなく窓を開けていましたが、今ではほとんどの車がクーラーをつけて走っています。

 エアコンはそれを使う人にとっては部屋を冷やすという点で「クーラー」といえますが、外にいる人にとっては室外機からの熱風を受けるヒーターです。特に冷やすという操作は効率が余り上がりませんから、冷やすためのエネルギーより多くのエネルギーが使われ、その総てが「熱」となって放出されるのです。

 「なにか仕事をして、その後に何も残さないということはない」というのが熱力学の原理であり、エントロピーの増大の法則が教えることでもあります。そのようなの世の中の活動のでもエアコンは特に効率が低いものなのです。冷房効率を計算した例によると建物の設計によって異なりますがおおよそ0.七-五%と計算されています(Ayres,R.)。実に低い効率で後は熱となって飛散します。

 夏の暑い盛り、外気が三0℃になろうとしているときに都市では一斉に暖房(クーラー)をつけ始めます。そのために外気の気温が上昇し、むんむんする都市の環境が生まれます。照りつける太陽、エアコンからの暖房、舗装道路からの照り返し、ビルからの熱気、自動車からの排気ガスに囲まれた都会の夏が来るのです。

 かつては少し湿り気のある土が露出していました。木々も日陰を作り、わずかですが水を蒸発させて真夏の熱を吸収していました。木々の間を抜けてくる風は何ともいえないほど心地よいものだったのです。

 自分が冷えるから良い、といってクーラーをつけ、それが他人にとっては暖房であることに気づかないのが現代人の特長です。そしてクーラーは単に周辺を暖めるだけではありません。良く知られているように夏の電力消費は年間を通じて最大値を示します。電力は貯蔵しておくことができませんから、最大電力にあわせて発電所や変電所、送電設備を整えなければなりません。その結果、発電所の建設に莫大な物質を使い、一年中あまり使わない規模の変電所や送電設備を保持しておく必要が生じます。

 エアコンを使っている人たち、その中には残念ならが「環境派」の人たちもいます。その人達は環境を守るためにリサイクルに汗を流し、時によっては環境を守るという理由で原子力発電所の建設に反対することもあります。原子力発電所の建設に反対する前に、自分の家や車のクーラーを捨てれば原子力発電所の建設の必要性自体がなくなるかも知れません。

 実は著者もエアコンを使わずに生活ができなくなってきています。間違っていると感じつつ夏も背広を着てクーラーの効く電車に乗り、大学の研究室にもクーラーがついています。自分でクーラーをヒーターと言うべきだといっておきながら、現実にはクーラーを使っている、ここのところが環境問題の難しい一面を示しています。

 まず、都会のクーラーを止めて真夏の暖房を控えるためには、都会に住む人の多くが心をあわせてクーラーを止める必要があります。他人が暖房をつけているとどうしても防衛上クーラーを使用せざるを得ないからです。

 次に、背広とYシャツを止めなければなりません。背広を着ていると汗まみれになりますし、背広は簡単に洗濯ができないのでどうしても汗をかきたくなくなります。しかし、自分だけ背広を着ないとわざわざ熱いところを背広を着て訪問してくれたお客さんに「なんだ、礼儀知らずの奴」と非難されますので、これも単独ではできません。

 結局、夏の暑い盛りに暖房を一斉につけて、みんなが「熱い、熱い」と悲鳴を上げ、クーラーを利かせてその中で冷房病になるという奇妙なことが起こるのです。

 不合理なリサイクルなどで一致協力するならその前に、都市に緑を増やし、無制限に土の地面を減らさず、少しの土煙を許して自然の環境を大切にしたほうがましです。そして、夏は夏らしい格好をし、汗を流し、気持ちよく夕方には風呂に入りたいものです。

 それには多くの人がが心を合わせなければなりません。そして、家庭電化製品を売っている販売店がクーラーを「真夏ヒーター」といって販売したらその店は本当に環境に優しく、本心から環境問題を心配している販売店と言うことができるでしょう。

 リサイクルが「リサイクルを商売とする人たち」によってかなり汚され、正しい指針を失ったようにクーラーや背広の問題も政治家のパフォーマンスなどの職業的な目的に利用されて失敗したこともあります。政治家が環境問題を取り上げてそのパフォーマンスとして背広を脱いで軽い服装にすることは政治家として間違っていないように思います。しかし、現代のように多くの政治家が本心から行動しないとみんなが思っているときには、効果は逆になります。従って、政治家がその誠意を疑われている間は、私たちが最初に心を合わせることが大切でしょう。

 しかし、社会をリードしている一流会社のサラリーマンや重役も多少、考え直してもらう必要があります。それは「背広とリサイクルの関係」です。

 背広を着てクーラー、それでもリサイクル派?

 環境を大切にしていると標榜している一流会社の社員は夏でも背広を着用して家を出ます。駅のエスカレータを利用してホームに登り、電車に乗り込みます。電車にもクーラーがガンガン効いていて背広を着ていても寒いくらいです。そして会社に着くとエレベーターで一0階にあるオフィスにあがり、そこで一段落します。

 しばらく仕事をしていると喉が乾いてきたので近くのコンビニエンス・ストアーに言ってペットボトルの飲料を買い、またエレベータを使って自分の机に座ります。そして、小一時間、買ってきた飲料で喉を潤しながら仕事をします。予定を見ると午後からは「冷房病をどうして防ぐか」という懇談会が予定されています。部屋の温度を高くすることができないので、寒い人はカーデガンなどを着るように進めようと思っています。

 そうこうする間に、ペットボトルは空になったので捨てます。環境に配慮する会社ですから決してゴミ箱にペットボトルを捨てるようなことはしません。二0歩ほどいったところに「リサイクル箱」が設置してあるのでそこまで歩いてペットボトルを投げ込みます。

 かくしてこの人の「環境に優しい生活」は完結します。

 「裸の王様」という話があります。その内容は誰でも知っているので省略しますが、なにか似ていないのでしょうか?あまりにも矛盾した行動に本人は気づかないのです。環境に優しい生活とは、真夏に背広を着てクーラーを使う生活ではありません。足があるなら階段は自分の足で登ればエスカレータの設備もそれを動かす動力も不要です。そして喉が乾いたらコンビニエンスストアまでペットボトルの飲料を買いに行かなくても、水道のあるところで水かお茶を飲んだらそれで喉の乾きは押さえられます。そして冷えすぎの部屋でカーデガンを羽織る必要などないのです。

 さらに「ペットボトルをリサイクル箱にいれた」ということとリサイクルをしたということは全く違うことです。このサラリーマンは全くリサイクルはしていません。「リサイクルをする」というのはペットボトルを実際に洗浄し、成形し、再びペットボトルにする作業自体をこのサラリーマンがすることで、それを「リサイクル」というのは当たり前です。単に隣のゴミ箱に入れずに「リサイクルの箱」にいれたことがリサイクルをしたと勘違いするのです。

 学校に行くと机が並んでいる

 なぜ、これほどまでに現実を喪失して、自分がリサイクルをしていないのに、リサイクル派といっても恥ずかしくないのでしょうか? すこし脱線しますが、現代の病の原因を一つ解析してみます。

 小学校の入学式に行くと、学校はすでに建設されています。そして授業が始まり、教室に行ってみると机は整然と並んでいて、そこに座ると先生が来られて教えてくれます。昼休みになると給食でお腹を膨らすことができ、午後の体操に時間には校庭に体操の道具がそろえられています。

 高等学校に進学しても同じでした。学校は立派でしたし、昨日汚した机も綺麗になっています。近くのパン屋さんに早め飯を食べに走るとパンが店頭に並んでいます。家に帰ってテレビをつけるとサッカーをやっていて、夕方になるとお母さんが夕食を用意してくれます。

 昔も学校は建っていました。給食もありました。パンも店頭に並んでいたと思います。その点では現在と昔とは変化していません。しかし、大きな点が違います。昔は多くのものを自分でやりました。例えば父親は毎日、鍬をふるっていましたし、時には父親と大きな切り株を引き抜くのに挑戦したこともありました。筋肉の痛み、父親の激しい息づかい、そして引き抜く瞬間の達成感、素晴らしいものでした。

 もちろん、自分の家で食べるものは家族で作りましたし、風呂は薪を焚いて沸かしました。薪に火をつけるにはどうしたらよいか、覚えました。

 自分が生きる上でしなければならないことは小さな時代から目で見たり、手伝わされたりしたものです。そして成人したり、結婚して家庭でも持つようになれば自分の生活を本当の意味で自分で守ったのです。その当時のリサイクルは自分でするリサイクルだったのです。歯の欠けて根本のゆるんだ鍬を自分で研ぎ、根本を締め直して使いました。母親は古着を解いて作り直し、自分の着物を作ってくれました。そんな中で環境を守り、リサイクルをしていたのです。背後霊も自然に見ることができたのです。

 それに対して、現代は自分の生活を自分一人ではできません。分業が進んで貨幣経済の中にどっぷりと浸かっています。自分のために学校を建てたのも、机を整然と並べたのも、教える先生も、給食の人も、体操の先制も、汚したトイレや机を拭く人も、みんな自分のために働くのが当然の人たちのように見えるのです。そして、自分の生活を支えてくれる人達のことを一生涯考えなくても人生を送れるのが現代です。

 現代においてリサイクルが数々の矛盾を孕んでいる原因の一つに、極端な分業と現実喪失、そしてそれに基づく「他人は何でも自分のために働いてくれる。そしてそれはタダで、環境にも何にも影響がない」という考えが底にあると感じられてしかたありません。


4.2.  地球は誰のものか?

 自然が集めてくれたものを使ってきた人間

 リサイクルについての私たちの「自己中心的な考え」は人間と自然との関わりでも似ています。そのことを、今まで人間が使ってきた資源との関係を整理しつつ考えたいと思います。

 代表的な天然資源は石油、石炭、天然ガス、鉄鉱石、銅鉱石、ボーキサイト、石灰石などがあります。それぞれ油田、石炭などの鉱脈などにあり、一所にまとまって存在します。つまり人間が利用している天然資源は地表に広く分布しているものではなく、ある特定な所に集まっているものなのです。広く拡がっているものを利用している例としては海に溶けている食塩(NaCl)から塩を取る例がありますが、これも岩塩がある地方は海からはとりません。

 この様に天然の資源は自然が太古の昔に徐々に徐々に蓄積してくれたものです。鉄鉱石などは数十億年をかけた形跡がありますし、石油でもある特定の地層に埋蔵されており、その厚みは数億年です。従って、人間は地球の資源を自由に使っているように見えますが、厳しい制限の中にいるといえるのです。別の表現でいえば人間は自然と独立に資源を獲得できるほどには偉くないという言い方もできます。

 リサイクルの間違いの一つは人間がいままで何でも利用できた、人間の力は大したものだと思ったところにあります。そしてさらにリサイクルは小学生や主婦などがペットボトルやアルミ缶を無料で集めてくれる、それを資源にしようと虫の良いことを考えたのです。

 この考え方は家電リサイクルでも同じように実施されようとしています。リサイクルするべき家庭電化製品はこれまでの「自然」に変わるもの、つまり「家で暇にしているひと」に期待しようとしているのです。またリサイクル工場では低賃金で環境の悪い職場でも働く人たちを当てにしています。

 リサイクルや環境は未来に向かったものです。そして、未来は明るく希望に満ちたものです。しかし、今から進もうとしているリサイクル社会は、特定の人たちが「リターナブル・ビンは環境に良い」といって自分たちはビンを返さずに飲むだけ、「ペットボトルはリサイクルしよう!」と呼びかけて容器包装リサイクル法を作って自分たちはペットボトルをリサイクル箱に入れるだけ、「家電製品はリサイクルしよう!」と呼びかけて家電リサイクル法を作り自分たちはテレビを買うだけでリサイクルはしない、そして「ボランティアで環境を守ろう!」といって主婦や子供に活動を期待する、そういう人たちが環境を指導してもらっては困るのです。

 環境問題を指導する人は自ら行動して環境を守らなければならないと思います。


4.3.  大量生産、大量消費、そして大量リサイクル

 リサイクル派はリサイクルが環境に良いと言わない?

 著者は八年ほど前に大学に移り、そこで材料工学の研究を始めました。そのとき、研究関係ではリサイクルの全盛時代で、研究計画で「リサイクルの研究」というと研究費を獲得できるような雰囲気でした。しかし、本当にリサイクルが環境に良いのか? 将来の日本の工学の方向なのか? と著者は考え、材料の実験を進めながらリサイクルの調査を行ってきました。

 三年ほど前リサイクルは環境に良くないという結論がでましたが、その結論が間違っていないか、色々な研究会や学会、委員会で質問を質問をしてきました。その過程で「著者はこういう理由でリサイクルは環境に良くないと考えるが、先生はいかがか?」という質問に答えた方はおられませんでした。確かにリサイクルに確固たる信念とデータをお持ちの先生もおられるでしょう。しかし、リサイクルを研究したり、それを業務としている人の多くが「リサイクルは環境に良い。その理由は***」と説明してくれなかったことは事実です。

 一九九九年には著者は質問を変えました。

 「私がこれから質問するのは、政治的な関係や法律ではありません。学問的なことですから、その視点でお答え下さい」と前置きをすることにしたのです。それまで質問すると「リサイクルをすることになっているから」「法律で決まっているから」「そのような本質的なことは考えたことはない。私たちはリサイクルに対応するだけで精一杯」というような答えが多かったからです。

 特に有毒廃棄物の越境禁止を定めたバーゼル条約については、この傾向が顕著でした。「貴社は東南アジアでテレビを製造しておられる。そして同時に国内でリサイクル工場を計画している。全体のつじつまは合うのですか?」という質問に対して、返ってきた答えは「現在、家電リサイクル法案に対する対策で手一杯で、そんな国際貿易を考えることもできません」でした。

 専門家がそういう状態だったので、地方自治体はとても困っていると思われました。ある自治体ではゴミを分別していたり、隣の自治体は分別しないなどということはよく見られます。自治体はダイオキシン問題で焼却が難しくなり、ゴミの貯蔵所は満杯になり、それでも市民からは毎日のようにゴミがでるという状態で呻吟していたようです。自分のものは自分で始末するということでもできない市もあるようでした。

 「ゴミ戦争」は今に始まったことではありません。杉並区民のエゴが非難され、インテリの身勝手といわれた江東区―杉並区のゴミ戦争、千葉県と青森県のゴミ騒動など多くの問題を抱えています。このような問題を「自治体や政府の責任」と言うこともありますが、著者はそうは思いません。環境問題は難しい問題で自治体が独自に考えて結論を出せるような課題ではないのです。また「ゴミ」が廃棄物の間は「ゴミの専門家」がある程度取り扱えますが、「ゴミ」を「資源」とみて利用することになると「資源分離工学」の分野になりますし、「ゴミ」を「焼却」してガスに変えるということになりますと、これは化学プラントですから「化学工学」の分野になります。

 それまでの廃棄物が廃棄物でなくなり、資源としようとしているのに、様々な決定に参加した専門家のほとんどがゴミを扱う専門家であったと言うことも問題の解決を遅らせた原因であると感じます。

リサイクルで汚いものが世間に溢れる

 さらに、リサイクルの熱が上がるに連れて「循環型社会」、あるいは「静脈産業論」などが登場してきました。循環についての学問はかなり難しく、短い説明では十分に意を尽くせませんが、循環型社会について簡単に触れます。

 「これまでの社会は使い捨ての社会だった。考えてみれば、天然資源は限られているし、使ったものをそのまま捨てればゴミになる。私たちの将来は使ったものを循環して使うこと、つまり循環型社会でなければならない。そしてそのためには現在の産業を「動脈産業」と位置づけ、それに対して使ったものをリサイクルする「静脈産業」を育成する必要がある。」というのが循環型社会をめざす思想の基礎になっています。

 この意見は一応もっともなところがあります。資源は有限ですし、廃棄物貯蔵所は満杯です。それでも私たちはものを使うことを止めるわけには行きません。そうなると、「循環型社会」しかないのではないか、と考えるのが人情ではあります。

 錯覚としての「静脈産業」と「循環型社会」

 動脈産業の典型的な例としてテレビの製造を取り上げ、静脈はそのリサイクルとします。テレビはプラスチックのキャビネット(外側の箱)とガラスでできたブラウン管、そして電気的な電源や電子回路でできています。キャビネットは石油を精製し、ポリスチレンというプラスチックにしてそれにゴムを混ぜ、成形して作り出します。総て大量生産で極めて効率的な製造が行われています。その過程では石油精製工場も、プラスチック製造工場も、そして成形工場、組立工場に至るまで、できるだけものを少なく使い、エネルギーを節約し、環境に配慮して製造されます。最高の効率と低い環境負荷といえるでしょう。このような高効率な製造システムが、これほどものを作っている世界の環境を守り、私たちの豊かな生活を支えているのです。

 ガラスも電子回路部分も似たようなものです。製造工程は効率よく、人手も少なく、最近の工場は綺麗です。昔のように汚い作業場、労働災害、環境汚染などはすっかり影を潜めました。昼夜にわたって連続的な生産をする工場でも夜間に働く人への配慮は驚くべきほど、完璧です。日本の高い工業製品の品質とコストはこのような高度な生産技術によって支えられています。

 それに対して、リサイクル側、つまり静脈側は生産効率に限界があります。まず対象とする製品が種々雑多であることです。石油原料から作る動脈側では、毎日一定の形を品質をもった原料が持ち込まれ、きちんとした管理のもとで生産が行われます。それに対して、リサイクル側の原料は、一九八0年に製造された**社のテレビ、一九九七年に製造された全く異なる形式のテレビ、と色々なものが持ち込まれます。それを嫌がって一九九0年製の**社の**形式のテレビしか引き取らない、というシステムを作っても静脈産業は成り立ちません。

 形も違い、プラスチックの材料から加工方法、それに組立方式、電子回路など総てにわたって異なる原料を対象とするのですから、生産効率が悪くなるのはやむを得ません。もし、リサイクルで回収する製品、すなわち他種類の原料を取り扱う自動化設備を使おうとしたら、数一00の解体ラインをそろえる必要があり、それはあまりにも非現実的ですから、結局人手に頼ることになります。

 動脈側が自動的に製造しているのに対して、静脈側が人手に頼っているのですから、その効率は大きく異なります。勢い、動脈側の設備は最新の工場で、素晴らしい設備を使い、静脈側の工場は吹きさらしで、貧弱な設備を使用せざるを得ません。

 静脈側を貧弱にするのは「環境を大切にしないから」?

 ここで反論があるでしょう。

「確かに、動脈側の生産効率より静脈側の生産効率が低いのは残念ではあるが、ある意味では当然である。むしろ問題なのはいままで静脈側を軽視した結果、資源の枯渇や環境の悪化を招いてきたのではないか。考えを転換し、たとえ不能率でも静脈側を育てる必要があるのだ」
という意見です。

 この考え方は「リサイクルが大変なことは判っている。しかしそういう考えだからダメなのだ」という意見と類似しています。ここではっきりさせなければならないのは、「リサイクルが大変とか楽か」ということでもなく、「リサイクルをすべきかすべきでないか」ということでもなく、「リサイクルが環境に良いか悪いか」ということです。それと同じように、静脈産業もそれが良いことか悪いことかは「静脈産業の育成が環境に良いことか、悪いことか」「静脈産業が日本の国際競争力を高めるか?」という意味であって、最初から「静脈産業は良いこと」と決まっているわけではないのです。

 かつて米の保護政策が大きな問題になったことがあります。国産の米の生産を守るために補助金を出し、国際価格の数倍の米を生産していたこともあります。当然のことですが、補助金が税金からでても他の会計から出ても、もとは日本国民が働いて価値を創造したなかから支払われています。それでも、食料は全体で一0兆円程度でしか無く、しかも国民の生命を預かるものですので、様々な議論があるでしょう。

 しかし、現在議論している静脈産業は日本のほとんどの生産高をしめる工業製品です。この分野の効率が悪くなったら、他の産業でカバーするほどのものはありません。たちまち日本の国際競争力がなくなり、ひどい生活になるでしょう。

 動脈産業の効率化が進み、失業率が高くなるので静脈産業を作るという話もあります。しかし静脈産業の効率が悪ければ、それは失業してい
る人に失業保険を支給するのと余り違わない結果になります。つまり、日本の富が空から降ってくるようなものであり、働かない人に失業保険を出しても何の影響も無いのなら別です。一昔前には、何でも「税金を使え!」といった時代がありました。そのうち、税金は実は自分たちが支払っていることに気づいて、そのような意見も少なくなってきています。

 不能率な静脈産業を育成することは、税金を使うことと同じ意味を持っているのです。自然の利用という点で人間が自分勝手な判断をすることを示しましたが、動脈産業と静脈産業の関係でも同じようなご都合主義の思考態度が見られます。

 静脈産業は環境に良いか?

 これまでの説明である部分は理解したと思いますが、静脈産業では次のハンディがあります。まず、第一に静脈に回ってくるものに毒物が混入してくるということです。何回もリサイクルしているうちには銅などの金属、鉛ガラスからの成分、そしてプラスチックの中に発生する毒物等です。これを検出するにはリサイクルで回ってきた材料をいったん液体にしなければなりません。そして全体を混合し毒物を測定し、さらに毒物を除去する工程をもうける必要があります。静脈産業には浄化系と浄化系を動かすための「浄化産業」が必要とされます。

 第二に材料工学の原理で劣化した材料が多く回ってくることです。天然原料からの場合は鉱山や油田、もしくは精錬工場、精製工場のようなかなり上流の工場で使えないものを除去しますので、動脈の総循環量に対して価値の低いものの循環はかなり押さえられています。つまり循環量のなかに価値の低いものが入ると、最終的な製品が得られるまでに価値の低いものにもエネルギーや物質が注がれるからです。

 静脈側ではその本質的特性から価値の低いまま最後の段階まで持って行かれる場合が多いのです。それは原料の発生箇所が個別の家庭であったり分散しているので集荷してから最終段階でかなりのものを分別したり判別しなければならないからです。

 つまり静脈産業は「人手がかかる」「汚いものを取り扱わなければならない」等の実学的な難しさの他に、基本的に次のハンディがあることが分かるのです。

 第一に毒物の処理のための浄化系が必要であること、

 第二に劣化した価値の低いものを大量に扱わなければならないこと

 これらのハンディを克服して静脈産業が成立し、それが日本の国力を上げるまでになるには大きなブレークスルーか日本全体が特別な環境、たとえば統制経済などのシステムが必要とされると考えられます。

 日本は何のためにリサイクルをしようとしているのでしょうか?また何が目的で静脈産業を育てようとしているのでしょうか?

 まず第一に静脈産業を育成することによって日本の産業の国際競争力を上げるのが目的と仮定します。この場合には日本の国内の総循環量が増大し、循環するものの価値が低下しますから効率は全体的に低下することが予想されます。また、二一世紀は「物質の使用量を可能な限り少なくして、同一の付加価値を生むシステム」が求められ、それこそが国際競争力を高めることになります。そのような視点では循環型社会は全くの逆方向であることが判ります。同一の付加価値を得るためにはこれまで以上に多くの物質を扱うことになるからです。物質の取扱量が増え循環量が増えることはトラックの移動距離が増大することであり、道路はさらに混雑し、輸送の軽油が必要となり、物流管理などの膨大なエネルギーを必要とします。現在、世界が向かっている方向はこれとは全く逆の方向なのです。

 考え方によっては「無駄なことでもトラックの移動距離が多くなればトラックが売れるし、タイヤも売れるから良い」と考える人もいると思います。しかしいくら消費するからと言って平和なときには価値を生まない軍隊に資金を投じても経済は良くならないのと同様に再生産に結びつかない経済活動は全体を弱らせ、一方的な消費は本質的に経済を疲弊させます。

 第二にそのような効率とか産業とかを考えずに、環境を良くすることだけを考慮するとします。環境を良くするためには物質の使用量を少なくし、物質やエネルギーの使用量を削減しなければなりません。循環量が増大すると物質やエネルギーの消費量は増え、それにともなって廃棄物量も増加します。従って静脈産業や「循環型社会」は日本経済を悪くするとともに環境の悪化を招きます。

 データのないLCAについて…未来の航空機ではあるが

 リサイクルにしても循環型社会の評価にしても、LCAの手法を使ってより正確に評価するという考え方もあります。しかし、著者はLCAという方法についてあまり言及しないことにしています。それは、著者がLCAを評価していないのでもなく、またLCAの手法を使っていないわけでもありません。LCAはもともとアメリカのある会社が自分の製品が環境に良いことを宣伝するために考案された方法です。従って、多少うさん臭い方法ではありますが、誠心誠意、学問的に取り組めば環境問題を解決するための有力な方法になることは間違いありません。

 二0世紀の幕開けにライト兄弟がヒコーキを発明しました。この発明は二0世紀に大きな足跡を残ることになり、私たちは今やアメリカやヨーロッパ、そしてアジアの各国に気軽にいけるまでになりました。しかし、ヒコーキも最初からジャンボジェット機があったわけではありません。エンジンも不十分、機体の材料も悪く、たちたび墜落したのです。

 LCAは環境と資源が重要になる二一世紀には主要な環境評価の一つの方法になると考えられます。しかし、まだ現在は「墜落するヒコーキ」の段階なのです。

 LCAは大きく分けて二つのやり方がありますが、簡単な方を表現すれば「積算方式」といえるでしょう。あるものが一0万円であるとします。コストや価格はO祖製造するときの環境負荷に比例しているといえますが、それでもその時々の市況によっても左右されます。市況は必ずしも環境とリンクしていませんから、コストで環境負荷を代表させるのは市場価格という不安定なものを尺度にするという点で多少乱暴です。その点ではLCAではあるものが一0万円でもその原料や製造工程、その他の要因を総て書き出して、一つ一つの環境負荷を積算していくのですから安心です。

 そのような理由からLCAが使われるのです。しかし現在のLCAには大きな欠陥があります。その欠陥はLCAの研究者自身が言っていることですが、二つに集約されるでしょう。

 その一つはLCAを計算するだけのデータが提供されず、それを推定する学問も不十分であると言うことです。LCAは原理的な式を展開して計算するのではなく、一つ一つを数え上げて積算するいわば腕力でするものですから、腕力を発揮するためのデータが必要とされます。

 著者の経験では環境関係のデータを得るのはとても大変です。それが著者のようにデータを要求するのが大学で、データを提供を依頼するのが地方自治体のように公共的なものでもデータを提供してもらえることは少ないのです。例えば、地方自治体でリサイクルプラスチックから油を採るプラントを導入したところがあります。その自治体に建設費やランニングコスト、製品の組成、そしてそのプラントを導入するときの委員会資料などを請求してもほとんどは「たらい回し」か「なしのつぶて」でありました。著者の研究室の要求の仕方が悪いのかも知れませんが、数年来満足なデータを提供して頂いたことはありません。

 紙のリサイクルでも同じことを経験しました。こちらの方は相手が私企業なので企業秘密があります。しかし、紙のリサイクルのようにある程度税金を投入し、教育関係では小学生まで巻き込んでいる状態では私企業といえどもある程度しっかりしたデータを公開するのが適切と考えられます。しかし、著者の研究室でLCAを計算できる程のデータは遂に集まらなかったのです。

 LCAは一つ一つの材料や生産プロセス、そして製品などの人間の活動を取り上げて、その構成要素をリストアップし、環境への影響を積み上げていく学問的な方法であることを述べましたが、まだ発展途上にあります。その理由の一つは人間が「環境」に注目しだしたのは二0世紀の後半のことだからです。確かに一九世紀から二0世紀の初頭にかけてマルサスの人口論に見られるように、地球環境が将来どうなるかについて真剣な研究が行われたのは確かです。その後、一九三0年代には国連がグールドらに将来の人口予測を依頼して大規模な検討が行われていますし、インドの独立運動を指揮したガンジーは、「物質の豊かさを追求するという限界のある文明は栄えない」と指摘していました。しかし、地球環境や人類の将来ということが多くの人々の関心を呼び出したのは、レイチェル・カーソンの「沈黙の春」の出版、一九七0年代のローマクラブの報告書、イタリアのセベソの爆発事故によるダイオキシンの飛散、そしてロジャース博士のオゾン層破壊の警告などが続いた二0世紀の後半、特に一九八0年代以後といえるでしょう。

 その後、急激に環境についての学問が発達してきました。しかし、この本でも整理しているように「リサイクル」や「物質の循環」といった環境の基礎的で重要な一つの課題についてもまだ研究の途上にあることから分かるように、「環境問題は発展途上」なのです。

 発展途上であること自体は問題がありませんが、そのような状態のもとでは具体的なことになると、人によって大きく判断が異なるのです。リサイクル関係のことをLCAで計算する時に最初に問題となるのは、主婦の労働をどのように捉えるかです。

 主婦は暇でタダ?そんなことはありません!

 LCAの第二の問題点は、環境評価で常に主婦は「暇でタダ」という設定をしていることです。

 たとえばペットボトルのリサイクルを取り上げますと、家庭で使われたペットボトルをまず主婦がスーパーなどに持っていきます。それをスーパーの人が集めて裏庭で最初の分別をします。そしてトラックに積み込んで倉庫に運び、倉庫にある程度たまってきたら、またフォークリフトでトラックに積んでリサイクル工場に運びます。リサイクル工場では従業員が仕分けをして再生産ラインに載せます。最後にリサイクル品を販売して「リサイクル」は完結します。

 このリサイクルのプロセスをLCAで計算するときに、トラック、トラックのタイヤ、リサイクル工場のベルトコンベアーの損耗などは第一に環境負荷として計算されます。しかし、トラックの運転手、リサイクル工場の従業員、事務員や社長などの賃金は計算に入れたり入れなかったりします。環境負荷に入れない理由は「運転手もどうせ、どこかで生きているのだから環境負荷に考えなくても良い」とするからです。著者はこの考え方に反対ですが、一応の理由はあります。運転手は人間ですからリサイクルに従事していようが、一般的な生産携わっていても、さらに競馬やプロ野球観戦行っても、呼吸はするし食事もとります。つまりどこにいてもほとんど同じなので、リサイクルの環境負荷にはカウントしないという考え方です。

 そんな計算をしたら、どんな経済活動も大半が負荷の小さいものになります。社会の生産活動のうち、装置化が進んでいるものほど同じ製品を作るのに効率が良く、従って環境の負荷が少なくても良い製品ができます。しかし、人件費を除外したら、非能率的な生産ラインが一番環境負荷が小さいという結論なってしまいます。そうなると日本名だたる会社はすべて環境劣等生になり、「非現実的な計算」ということになるでしょう。普通に考えれば、人件費も環境負荷に入れるのが適当と思いますし、リサイクル品を運搬している運転手がお弁当を食べた時の「弁当のいれもの」は環境負荷と考えるのが適当なのです。

 しかし、主婦となると話が別のようです。主婦はいつもブラブラしていて三食昼寝付きで遊んでいる、と多くの環境学者は考えています。そのために使い終わったペットボトルをスーパーに持っていく主婦の負担は環境負荷ではないと認定します。それにはそれなりの理由がつきます。たとえば「どうせ買いものにスーパーに行くのだからそのついでに持っていく手間は考えなくても良い」「主婦はどうせ暇なのだから、スーパーへ行かなければテレビを見ているのだから、その方が環境に悪い」などです。

 この考え方が「スーパーにペットボトルを持っていく」ことに限定されていれば、ある程度の理屈も成り立つと思いますが、この考え方が全体に広まります。「主婦は暇だから、大型ゴミを捨てるときに主婦が自治体に連絡したり、大型ゴミを運びやすくするようなことはやればよいじゃないか」「主婦は暇だから、ゴミをキチンと分別したら良いじゃないか、それは環境負担ではない」「主婦は暇だから、分別するときにマヨネーズをよく洗剤であらって出してもらいたい」というように際限がなくなります。そしてLCAでは主婦の負担を環境負担としません。

 その結果、環境を守る主婦の負担はますます多くなります。ここで「主婦」と代表的に書きましたが、家庭をもって「主婦として働く」という状態を女性の標準的状態と考えること自体に誤りがあります。現代、そして将来の女性の生活は「主婦」とくくること自体が間違っているのです。しかし、ゴミを分別したり、生活に直結する活動が多くの女性に任されていることも確かで、そこを「暇、タダ」でかたづけているのが環境の専門家なのです。

 そのような計算例を図に示しました。ペットボトルのリサイクルを計算するときに、ペットボトルを「暇な人」が自分で洗ってリサイクル工場まで運べばリサイクルの負荷はゼロとなり、近代的なベルトコンベアーを各家庭に引き、そこから電力で自動的にリサイクル工場へ運ばれ、さらに自動的に選別して洗浄し、リサイクルをすると莫大な環境負荷がかかることになります。

 本当のところは人手がかかる方が効率が悪く、即ち環境に悪いのです。

 それよりなにより、私はこのような考え方、すなわち「どうせ、無駄な生活をしている人間はタダと考えて良い」ということに絶対に賛成できません。人間の生き方はそれぞれが価値のあるものであり、どの生き方が正しいかをある特定の基準を持って決めること自体間違いであると思います。

 リサイクル率の目標管理 総合リサイクル率

 二0世紀、私たちは生産を増大し、会社を成長させ、経済成長率に一喜一憂してきました。その基本的な考え方は「何でも右上がりなら良い」という思想でした。昨年度は一00トン生産したのなら、今年は一0五トンでなければなりませんでした。これは資本主義の経済の中の仕組みの問題であり、一人の人が増産に反対でも解答がなかったのです。このような悲しい二0世紀の人間の考え方は、全く反対の概念を作り上げようとしているリサイクルにも適当されました。

 そこで、多くのリサイクル協会は「担当しているもののリサイクル率を上げなければならない」と考えました。そしてそれを監督指導するお役所は「リサイクル率の目標」なるものを掲げるようになったのです。リサイクルの目的はものを減らし、廃棄物を減少することにあります。そして基本的概念は「**率を上げる」という目標自体を無意味にすることであったはずです。そのリサイクル業務ですら「成長」を目標とするのですから。

 なぜ、リサイクル協会はリサイクル成長率を上げなければならないのでしょうか?

 「総合リサイクル率」は使いたくない

 本著で整理したようにリサイクルには資源を節約し、廃棄物を減少できるものと、リサイクルによってかえって資源を無駄に使い、廃棄物を増加させるものとがあります。屑鉄は前者ですからできるだけリサイクルする方が良いですし、ペットボトルやテレビは後者の典型的なものですからリサイクルはしてはいけません。国民が本当に知りたい「リサイクル率」は「ペットボトルをどの程度リサイクルできたか」という「単純リサイクル率」ではなくて、「そのリサイクルでどの程度、資源を節約でき廃棄物を減らすことができたか」ということです。したがって「綜合リサイクル率」を公表するべきなのです。そのときにこそ正しく計算するということを前提にすればLCAが役立つでしょう。

 しかし、お役所は「綜合リサイクル率」の公表をいやがります。それはほとんどのものが「単純リサイクル率」を高めることができても、単純リサイクル率を高めれば高めるほど「綜合リサイクル率」が低くなり、リサイクルが環境に悪いことが白日の下に晒されるからです。

 リサイクルは環境を守るための真剣な取り組みです。そんなことをしてなにになるのでしょうか? 現在進んでいるリサイクルはその本来の目的、つまり物質の使用量を減らし、環境を改善し、資源を節約することを目的としていないと感じられます。おそらく、現在、進めているリサイクルは大量生産、大量消費、そして大量リサイクルを目的としているので、リサイクルを進めるとゴミが増え、資源を消費し、そして矛盾が目立つのでしょう。