第二回 -日本の環境汚染-

1.1. 日本の環境汚染

 モヘンジョダロのところで触れたように一般に東洋は西洋に比較して衛生的で、特に都市の衛生状態は満足すべきものであった。中世ヨーロッパがペストなどの大規模な疫病に次々と襲われたのに対して、歴史的に日本ではほとんど大規模疫病の流行が無かったことについては諸説あるが、日本人の生活が比較的衛生的であったことも理由の一つに上げられている。

このように江戸時代までは日本には大きな環境汚染はなかったし、また明治から大正までの期間でも鉱山周辺などの限定された地域以外では住みやすい土地であった。

しかし、日本では第二次世界大戦後の技術革新と経済発展にともない次々と公害が顕在化した。戦後、すぐ起こったのは水俣病であり、メチル水銀による中枢神経系の障害で 1)、その症状は悲惨だった(図 4)。


図 4 水俣病を患う少女

 日本窒素は朝鮮などに大工場を持っていた大企業で技術力も高く、戦後、いち早く水俣にアセトアルデヒドの最新鋭工場を建設した。工場建設8年後の1953年、新日窒水俣工場附属病院に一人の少女が診察に訪れて診察を受け「脳障害」と診断された。

この奇病の原因追及が急速に行われ、3年後には熊本大学が「この病気は感染症ではなく中毒である」という推定結果を発表、翌年には厚生省厚生科学研究班が「セレン、マンガンの他タリウムが疑われる」とした。真なる原因はアルデヒド製造工程中に触媒として使用した硫酸水銀が工程内でメチル水銀に変ったことにあったが、この奇病の原因が水銀であることがわかったのは最初の患者発生から6年後の1959年だった。

 この公害は大きな社会的問題となり、水銀が原因であると判った年には不知火海沿岸の漁民が排水の停止を求めてチッソに乱入したが、それを「チッソの工場の排水を停止するな!」と市長に迫ったのは市民だった。現在では水銀を流した企業が厳しく非難されているが、日本窒素が工場を操業した時、日本中、一人として水銀が水俣病を引き起こすことを知らなかったということを冷静に受け止める必要がある。その意味で水俣病の責任がチッソではなく、当時の日本全体であった。

 この水俣病の評価を学問的に厳密にしておかなかったことが後の多くの薬害を生むことになる。つまり、水俣病は「水銀が毒物であることを日本窒素が知っていてやっていた」ことではなく、知らないで創業していたのである。その意味では日本窒素には責任がなく、敢えて責任があると言えば学問であり、日本国民だった。

しかし、この責任を日本窒素に負わせたために、患者さんなどの救済には多少の役に立ったかも知れないが、この公害で日本人がもっとも学ぶべき事・・・新しい工業技術には我々が知ることのできない危険がある・・・という教訓をくみ取ることができなかったのである。

 材料と環境という点で整理をすると水俣病は有毒物による水質汚染の例であるが、このような例は阿賀野川の新潟水俣病、富山県のイタイイタイ病(カドミウム)などが知られている。一方、大気汚染としては四日市喘息、川崎公害訴訟などが代表的であるが、特に四日市喘息は材料と環境を考える上で重要な示唆を与える。

四日市では1960年頃より、磯津、塩浜地域を中心に気管支喘息の異常な発生が訴えられるようになった。同市内に設けた汚染地区、非汚染地区における約3万人の国民健康保険加入者について、その年間受診率を調べた結果が図 5の上の図である。4歳未満の幼児と50歳以上の年齢層で気管支喘息の発生増加がみられた。

また図 5の下は、調査された市内の13地区における二酸化硫黄の濃度レベルと50歳以上の年齢層での喘息受診率との関係を示したものであるが、二酸化硫黄濃度が高い地域の人ほど、喘息の受診率が高く、その間に強い相関がみられている。

  


図 5 四日市の汚染地域と気管支喘息(左)と二酸化硫黄の濃度と喘息受診率(右)

このような調査を経て、日本で最初の市公害等医療審査会が設置され、患者の認定と医療費の公的負担が実施された。初期の患者数は約600名であり工場の近くに居住する人が多かった。四日市のコンビナートが多くの公害患者を出したのは「職住接近の方が便利」ということで工場を住宅地の近くに作ったことが原因していた。そしてそれに驚いて煙突を高くしたところ、今度は市の中心部からも喘息患者が発生した。

すなわち、四日市に工業地帯を作る時に職住を接近させ、工場の周りに住宅を建設したのは当時の知識から言うと「正しい」ことであった。まだ二酸化硫黄による大気汚染が知られていないのだから、職住接近も当然のことなのである。そして喘息の原因が二酸化硫黄らしいと判った後でも煙突を高くすればよいという対策が打たれた。今から考えると実にばからしいように思われるかも知れないが、当時としては最適な解決策だった。


図 6 1860年代の町の誇りとしての製鉄工場

図 6は1860年代のオランダの製鉄工場の図であるが、この図を現代の人が見ると煙をもうもうと吐いている公害のもとのように見えるが、この図が書かれた頃は町の誇りであり、生活を豊かにしてくれる原動力だったのである。

水俣病は誰も水銀が中毒の原因になるとは考えていないところに起こり、四日市喘息はまさか煙突から有害物質が出るとは思わなかったことによる。自分の町に大工場があり、煙突が林立しているのは誇りであって公害など考えても見なかったのである。

環境の問題は常にこのような推移を辿る。そして何回、悲惨な経験してもその経験が有効に活かすことができないのが環境というものの難しさであるが、しかし、その原因の多くが被害者の悲惨さに目を奪われ、その真実の姿を追求出来なかったことによる。さらに踏み込めば公害の多くは被害者が加害者であり、加害者がある時に被害者になるという側面がある。そのためにそれまで加害者であった人は被害の発生と共に「犯人探し」をはじめ、その多くが会社、自治体、そして政府になり、それでケリがつく。しかし真なる加害者は会社などを追求した当の本人であるために真なる原因は曖昧なままに終わるのである。

 

参考文献

1) 熊本県ホームページhttp://www.pref.kumamoto.jp/eco/minamata/minamata02.html