第一回 -世界史に残る環境問題-

はじめに
 
 現代は大きな時代の変革期にある。約300年前から始まった近代科学と新しい社会体制はこの地球をほとんど人間という種だけが自由に使う空間と化した。本論では「環境と材料から見た現代の成立とその問題点」を論じるが、それに際して「環境」が新しい学問領域であることを指摘しなければならない。

本論では環境汚染や資源枯渇が一つの軸になるが、環境汚染はすでに四大文明時代からの人類の課題ではあり、それが近代科学の一つとして学問的に取り扱われるようになったのは、20世紀の後半である。

社会的にあまり知られていない先駆的な研究を別にすると「環境」という概念が人々の前に明確に出現したのは1963年にレイチェル・カーソンの「沈黙の春」が出版された時であり、世界的な衝撃は1972年のメドウスの「成長の限界」に始まった。その衝撃があまりにも大きかった為に1980年代には「環境」が全ての社会活動の上位に位置するようにまでなった。

 しかし、新しい学問がそれほど短期間に正しい結論を得ることは困難であり、現在、「環境」ほど曖昧で不確かな研究対象はない。そこで、本論は環境という対象をその原点に戻って考え直すことを第一の目的としている。

1. 材料との関係における環境の歴史

1.1. 世界史に残る環境問題

大量生産・大量消費が環境破壊を招くとしたら現代に比較して物質の消費量が格段に低かった19世紀以前には顕著な公害や環境破壊は存在しなかったと言うことになるが、歴史は異なる事実を示している。四大文明がメソポタミア、インダス、黄河流域、そしてエジプトに花開いた時から、ある時には環境が破壊され、ある時には見事に環境破壊が回避されている。

例えば、B.C.2500年頃から青銅器と文字を駆使した都市文明がインドのパンジャム地方のハラッパーやシンド地方のモヘンジョ・ダロで勃興した頃、羊毛や木綿の衣服で身を包んだ住民が、コムギ、オオムギ、エンドウマメ、メロン、ワタなどを栽培して文化的生活を維持していた。

インダス文明は日々の生活において優れていたばかりではなく、街路が碁盤の目に敷かれ、それに沿って建設された家屋がレンガ作りで整然と立ち並び、さらに各戸は完璧な下水道で衛生環境が守られていた。特にモヘンジュ・ダロの遺跡では、図 1に見られるように下水道が道路の中央を通り、各戸からの排水が直結され、溝は窯焼レンガ、縦方向の配水管は陶管が用いられ、便所も2階に設置できるほど排水は完備されていた。

   

図1 BC3000頃のモヘンジョダロ(左)と平安時代の日本の排水路(右)

 残念ながらインダス文明が生んだ都市計画はその後、おそらくは日本などの一部を除いて、どの文明にも引き継がれることなく滅んでしまったが、このような都市計画と衛生的な環境が人類の文明の発祥の段階で誕生したことはその後の歴史の流れと共に環境を考える上で大きな教訓を残してくれる。例えば、インダス文明とほぼ同時期に世界的な国家を建設したエジプトについてはその代表的な都市であるメンフィスの調査が行なわれている。

メンフィスは約10km四方の集落であるが、都市と言うには貫通した道路など整備されていない。このような傾向はメンフィスばかりではなく多くの古代エジプトの都市に見られ、第12王朝時代のクーウムなどの複数の町では部屋の壁には無数のネズミが囓った後が残されており、ミイラの頭髪にはシラミが見られ、その他ノミ、ハエ、カ、ヘビなどに悩まされ、その駆除にやっきになっていた様がエーベルパピルスなどに詳細に記述されている。

最近になって焼却によってダイオキシンが発生すると心配されているが、古代エジプトでは密閉された室内で火を使っており、図 2に示すようにミイラの肺には重層したススが蓄積している 1)。エジプトの多くの都市の日々のゴミは空き地や廃屋に捨てられ、それをイヌやハゲタカなどが漁り、糞尿は路上或は空き地が利用された。ゴミを焼いて処分する風習は一般的でなかったと言われ、古代エジプトの絵画に現れる綺麗な池の多くはゴミや家畜の死骸が浮いていたと言われる。

このようにヨーロッパ文明は環境汚染に対して鈍感であり、中世ヨーロッパでは河川を飲み水の水源にしていたこともあって、フランスでは13世紀、イタリアでは15世紀に、住民が動物の死骸やゴミを河川投棄したり、皮革業者が皮を河川で洗うことや染物屋が使い終った染料を川に投棄することを禁止した例がある。産業廃棄物に関する初期の対応とも言える事例である。


図 2 古代エジプトのミイラの肺の解剖写真

 また都市ゴミの問題も現代に始まった問題ではなく、中世ヨーロッパの生産力でも家庭からでるゴミを個々の家庭で処理することはできなかった。ブタ、ガチョウ、アヒルなどの動物を飼育し、ゴミをそれらの家畜の餌にするという方法はヨーロッパのみならず中国から東南アジアで現代でも広く見られるが、住宅が密集している都市の豚舎はそれ自体が環境汚染の要因となるので15世紀には道路に面した場所に豚舎を置くことを禁止している。

このように衛生観念は低くゴミや糞尿を平気で道路に投げ捨てる風習は続いた。住宅の窓からゴミや汚水を道路に投げ捨てる時のかけ声も決まっていて、ロンドンでは”Gardy Lo”、パリでは”Garde L’eau”と叫んでいた。

以上、インダス文明とエジプト文明の比較、その後の都市環境の発展について示した。

次に、歴史的には有害物質による健康障害の記録が残っている。古代ローマの貴族は好んでブドー酒を飲んだが、風味を良くするために鉛を混入した。また体の弱い人のために鉛シロップを海水とともに鉛でできた鍋で煮詰めたadynamonと呼ばれる飲料も作られていた。ブドー酒に鉛を混入することは甘みを付けることのほか、腐敗防止にも効果が認められたからであったが、雑菌の消毒とともに人間も中毒になる原因となったと言えよう。


図 3 “Garde L’eau”

 このようなことからローマ市民には鉛中毒を示す症状が出て、便秘、腹痛、貧血、関節痛などやさらに病体が進むと麻痺、頭痛、不眠症、失明、精神錯乱などが起こり、女性では不妊、流産などが記録されている。このようにローマ人も鉛による中毒には気がついていたようであるが、それを公害や環境破壊という視点から認識するに至らなかった。

この鉛中毒の歴史的教訓は忘れられ、20世紀には自動車のアンチノック剤として四エチル鉛が大量に使用されたことから1960年代にグリーンランド北部の氷層中に含まれる鉛の濃度は産業革命以前のレベルの400倍にも達していた 2)。Allis Hamilton (1896-1995)が鉛による中毒について警告し、現実に鉛の製造会社の中で健康調査を行なったのは20世紀の中頃であったが、そのころでも鉛製造会社の多くは鉛害を否定して社会も特に四エチル鉛の使用については疑問を差し挟んでいない 3)。

 歴史的に最後に登場した環境問題(本稿で言う環境問題とは材料に密接に関係する対象だけに限定している)が大気汚染であり、それが大規模環境汚染としては最初のものになった。

13世紀にロンドンは煤煙問題に苦しみエドワードⅠ世が石炭の使用禁止令を出している。住居が密集し、産業が盛んだったロンドンは石炭に頼らざるを得ず、煤煙は家庭ばかりではなく、ガラス製造、ビール、蔗糖、石鹸、金属加工、染料、レンガ製造などの産業からも発生した。ロンドンが大気汚染に悩まされたのは、地形や気候上の要因もあった。

そのことが後に述べる1953年の大災害をもたらす要因となった。John Evelynは1661年、“Fumifugium”と題される書物を執筆し、その中で当時ロンドン市民を悩ましていた石炭からの煤煙被害について整理し、政策提言を行なっている 4)。

 ロンドンが1,000万人都市になっていた1950年代に“ロンドンスモッグ事件”が起こる。

1952年12月4日、気温4℃、冬の初めで既にロンドンの各家庭では石炭を暖房に使っていたが、その日の空は澄んでいたと記録されている。昼頃、大陸方面の冷気団が西に移動して英仏海峡を渡り、ロンドンをすっぽり覆うようになった。寒気の到来で上空との気温が逆転し風も止ったが、一段と寒くなったので暖房に使用される石炭は増加した。

翌5日朝、亜硫酸ガスと霧が混じり合ったスモッグがロンドン市内全域を多い、次々と異常現象が観測され始めた。そしてその後の調査で12月前半に4日間続いたこのスモッグで犠牲になった人は約4,000人と言われる。

 

参考文献

1) 大場英樹, “環境問題と世界史”, p.25 (1979) 公害対策技術同友会
2) LEAD (Journal) (1972) National Academy of Science
3) A.Hamilton and H.L.Hardy, “Industrial Toxicology”, (1974) Acton Mass. Publishing Sciences Groups
4) John Evelyn, “Fumifugium or the Inconvenience of the Aer and Somoake of London Dissipated” (1661)