南北問題、弱者、および生物と環境の関係(その1)
南北問題と環境
環境問題は近代科学の負の側面が顕在化したものであるが、これまでも近代科学はヨーロッパの一部の人が豊かになる武器となり、その結果、世界の多くの国は植民地となって呻吟するという結果を招いた。近代科学が生み出した世界的な格差の拡大が、今後、科学の成果が世界に及ぶことによって全体として正の効果をもたらすのか、格差を拡大するのかは興味ある問題である。
その一つに現在の環境運動がある。環境問題が格差の拡大につながるのではないかとの危惧に基づいて書かれた有名な漫画を図 41に示す。
図 41 二酸化炭素を出している人が出していない人を怒る。
この漫画は二酸化炭素を出しているアメリカ人が二酸化炭素をほとんど出していない南の国の人が樹木を切ろうとしているのを怒るという内容であり、「泥棒が盗むのを非難する」という矛盾した関係を示している。このように、「環境」という用語は「みんなで」「心豊か」「弱者へのいたわり」などと共通する語感を持つが、現実には競争社会を環境という名で格差を拡大するという性質を持っている。
まず資源面では先進国の環境の規制や市民の環境問題が厳しくなるにつれて力の弱い国で有害物質を出し、イオウなどを除去した後、先進国に入れるような方向に向いている。
例えば、銅の鉱山や油田からはイオウ、ヒ素など多くの毒物を含み、日本でも足尾銅山鉱毒事件などを経験している。現在は、日本に輸出する鉱山を持つ国で二酸化イオウを出してその地域の環境を破壊している。国際協調の上でこのような環境と富の問題をどのように解釈し考えるかで品位ある日本人かどうかが決まるとも言えよう。
図 42 チリの銅鉱山(左)と油田付近の汚染(右)
南北格差は資源面ばかりではなく、リサイクルなどでも見られる。日本で繊維や古着のリサイクルが行われているが、日本人は古着を購入しない。日本人の古着は主として南の貧しい国に輸出される。古着は有害物質を多く含まないのでバーゼル条約(1989年にスイスのバーゼルで調印された条約で、有害物質を含む廃棄物の越境を禁止している。日本も批准している。)には抵触しないが、環境モラルとしては問題がある。つまり「使用できる古着」を輸出するのはモラル上は問題はないが、「捨てたものを輸出する」のが妥当かどうかはまだ検討が不十分である。
また自動車のバッテリーの鉛のリサイクル率は100%近いと言われているが、それは回収率であり、鉛のある割合は開発途上国に出されていると言われている。リサイクルを国際的に行おうとする動きもあり、国際会議では途上国から危惧の声も上がっている。
資料 3は2005年5月2日の日経新聞で報道されたものであるが、中古品という名前で廃棄物あるいは廃棄寸前のものが途上国に運び込まれていることを指摘している。仮に廃棄物が先進国の環境を汚すなら、環境を保全する力の少ない途上国はより打撃を受けるのは必然である。
資料 3 廃棄物が途上国に??
これらのものは明確な国際協約違反とは言えないものの、違反ぎりぎりであることは確かである。欧米先進国の感覚では自己中心的に廃棄物を途上国に回すのは特に問題ないと考えるが、日本人は同じアジア人としてもまた節度をもった民族としても国際的に尊敬される行動をとることが望まれる。
次に薬害について若干の考察を加えてみたい。
1963年、レイチェル・カーソンが「沈黙の春」を出版して以来、先進国は塩素系化合物を中心として薬害が心配される化合物の追放をはかった。「危険と思われる物は予防的に排除する」ことはより安全になるという考え方は広く白人社会に定着している。しかし、例えば代表的農薬であるDDTの排斥によって、国連のマラリア撲滅運動は手段を失い、4,000万人近い人がマラリアで命を落とした。
図 43 マラリア症例報告数
環境運動の多くは、「地球の環境を良くする」のではなく、「自分だけが良くなる」ことを目指していることが多いが、DDTの問題はそれを象徴的に示している。因みに、日本は「農薬の実験場」とまで言われ、先進国の中で飛び抜けて多い農薬を使用していて、ガンの発生数が増えるとのシミュレーションもなされていたが、現実にはガンの増加は見られない。DDTの追放は白人の命を10人程度救った可能性はあるが、発展途上国で犠牲になった人の数とは比較にならない。
それと類似のことが火災との関係でも見られる。ハロゲン化合物が環境を破壊するということでハロゲン系難燃剤が追放され、それによって先進各国では火災による犠牲者が増加した。火災で犠牲になる人は主として幼児と老人であり、この場合も環境運動は弱者にその犠牲を強いている結果となっている。
図 44 火災による被害者数
環境問題と南北問題はきわめて難しい問題であり、まず最初の漫画にあるように環境問題自体が南北格差によって生み出されてきていること、また地球全体の資源や環境の利用権が国家で平等なのかというような基本的な研究が進んでいない。今後、さらに冷静な検討が進むことが期待される。
第九回 終わり