リサイクルと有害物質(その1)

 歴史的経過

 四大文明がメソポタミア、インダス、黄河流域、そしてエジプトに花開いた時から、ある時には環境が破壊され、ある時には見事に環境が守られてきた。例えば、今から4000年前から青銅器と文字を使った都市文明がインドのパンジャム地方のハラッパーやシンド地方のモヘンジュ・ダロなどに起こり、そこでは、すでに羊毛や木綿の衣服で身を包んだ住民が、コムギ、オオムギ、エンドウマメ、メロン、ワタなどを栽培して豊かな農耕生活を営んでいる。
インダス文明は、毎日の生活を送る文化で優れていたばかりではなく、街路が碁盤の目に敷かれ、それに沿って建設された家屋がレンガ作りで整然と立ち並び、さらに家々には完全ともいえるような下水道で、衛生環境が守られていた。特にモヘンジュ・ダロの遺跡からは、下水道が道路の中央を通って、家々からの排水がそれに直結され、溝は窯焼レンガ、縦の配水管は陶管で作られ、トイレですら、2階につくることができるほど排水は完備していたと言われる。
しかし、残念ながらインダス文明が生んだこの優れた都市の生活はその後、どの文明にも引きつがれることなく滅んだ。そしてインダス文明と並んで発展していたエジプト文明は様子が違う。

       

図 14 東洋と西洋の衛生観念の違い

 古代のエジプトの代表的な都市であるメンフィスは10キロメートル四方の大きな集落だが、全体を貫通した道路もなく、どうも都市計画という考え方自体が無かったと考えられる。第12王朝時代のクーウムでは、部屋の壁に無数のネズミがかじった後が残され、ミイラの頭髪にはシラミ、ノミ、ハエ、カ、ヘビなどに悩まされ、その駆除にやっきになっていた様子がエーベル・パピルスなどに詳しく記録されている。
町の衛生状態は劣悪で、家庭から出るゴミは空き地や廃屋に捨てられ、それをイヌやハゲタカなどが漁り、糞尿は路上や空き地に捨てられていたと考えられている。古代エジプトの絵画にもゴミや家畜の死骸が浮いていた様子が描かれ、全体的な衛生環境はわるかった。
この2つの例は歴史的な検証を厳密にしなければならないが、同時代の同じような状況のもとでも異なる文化があり、それによって環境が大きく異なっていたことを認識するには良い教材である。
エジプトの流れは中世ヨーロッパにも引き継がれ、住民が河川に捨てる動物の死骸やゴミが飲み水に直接的な影響を及ぼすことになった。また、産業では、皮をなめす業者が、皮を河川で洗ったり、染物屋が使い終った染料を川に捨てることでひどく川が汚れ、産業廃棄物を川に捨てるのを禁止している記録も見られる。
また、家庭から出るゴミはかなりの量で、特に都市ではそれを個々の家庭の中で処理することはできなかったので、ブタ、ガチョウ、アヒルなどの動物を飼育し、ゴミをそれらの家畜の餌にする方法もとられてた。しかし豚舎はさすがに都市の生活とは調和しなかったので、15世紀には道路に面した場所に豚舎をおくことが禁止されている。
このように、中世から近世にかけたヨーロッパは衛生観念が低く、ゴミや糞尿を平気で道路に投げ捨てる風習はなかなかなくならず、そのことが都市の衛生状態を悪化させてペストなどの疫病の大流行へとつながっていたと考えられる。中世ヨーロッパの都市では、窓からゴミや汚水を道路に投げ捨てており、その時のかけ声も決っていて、ロンドンでは「ガーディ・ルイ」と言っていた。
これに対して中世の日本は、豊富な水や四季折々の気候の変化、たえず吹いている西からの風、そして台風が自然の循環を促進したこともあって、衛生状態は格段によく、特に日本の田舎の衛生状態は優れていて、余裕のある生活と日本人のきれい好きが原因していると思われる。
江戸末期、ヨーロッパ人は、簡素ながら清潔な日本の家、風呂好きな民族、そして上は大名から下は農民、漁民に至るまで同じような衛生観念を持っていることに驚いている。事実、日本ではヨーロッパのペストのような歴史的な疫病の大流行というのがなかったが、それはすでに中世からかなり衛生的だったことが理由とも考えられる。
それでも、家庭からでるゴミが江戸市内にあふれることがあり、すでに江戸の初期、1655年には深川永代浦にゴミ捨て場、現代でいえば最終処分場を作っている。また、日本のトイレがくみ取り式だったことから不衛生だったと言われているが、もともと日本は水が豊富で平安時代から水洗トイレは考案されていたが、汚物を水に流すと、やがてその水が環境を汚すことを早い時期から判っていたようで、それを、
「川に小便をするとオチンチンがはれる」
という戒めで伝え、くみ取り式が採用されていたとも伝えられている。アイヌでは最近まで「水の神様」を信じて、その信仰を助けにして水の汚れを防いでいる。いずれにしてもヨーロッパでは大規模疫病が数回蔓延したのに対して、日本では大きな疫病が記録されていないことは注目するべきことといえる。



図 15 ロンドンスモッグ事件の前後のロンドンの死者数

 1952年の12月5日から9日にかけて、英国の首都ロンドンは高気圧のもとで、安定な大気条件となり、濃霧に覆われれた。そして、大気汚染物質が滞留して呼吸困難、チアノーゼ、発熱などを呈する人が多発し、この期間を含めた数週間の死亡者数は前年度の同時期よりも約4,000人程多かったとされている。死因の大部分は、慢性気管支炎、気管支肺炎、心臓病であり、死亡者の多くは慢性呼吸器疾患を有する高齢者だった。ロンドンでは、当時、燃料として主に石炭を利用しており、その燃焼によって生じるすすや亜硫酸ガス(二酸化硫黄)などが、ロンドンに特有の冬の気象条件によって地表付近に停滞したことによって発生したとされている。このようなロンドン型スモッグは、19世紀の半ばころから見られており、約100年の間に、この1952年の事件以外にも主なものだけで10件ほどの大きな事件が起こっている。
日本でも水俣病や四日市喘息が公害病として有名である。水俣病についてはここでは割愛するが、四日市喘息は日本が高度成長を遂げる過程でおこった典型的な公害である。1960年頃より、磯津、塩浜地域を中心に気管支喘息の異常な発生が訴えられるようになり、その後の研究で市内の13地区における二酸化硫黄の濃度レベルと50歳以上の年齢層での喘息受診率との間に強い相関性があることが明らかになった(図 16)。また、二酸化硫黄濃度が高い地域の人ほど喘息の受診率が高いことも知られている。



図 16 四日市の二酸化硫黄の濃度と喘息受診率

 その後、多くの環境対策と環境技術の効果が上がり、現在では大気、水質などは改善されてきた。その代わり、農薬(DDTなど)、ダイオキシン、環境ホルモン(内分泌攪乱物質)などが問題となっている。特にダイオキシンは「人類が作り出した史上最悪の毒物」というわかりやすいレッテルが貼られ、大きな環境問題に発展している。
 このような歴史的変遷は、
1) 被害が出ても原因がわからず、また対策も十分にとらなかった時代(1950年代まで)
2) 被害が出ると原因を追及し、対策を講じた時代(1950年代から1980年代まで)
3) 被害が出ない前に予防的に対策をとる時代(1990年代より)
となっている。古くは古代エジプト、ローマ帝政時代が1)に相当するが、中世ヨーロッパではわずかではあるが、徐々に対策がとられるようになってきた。
 日本における水俣病は、公害に対する認識が1)から2)に変化する途中に起きたことで、発生したこと自体は企業の責任ではないことを明確にしておくことが、この悲惨な教訓を活かすことにつながる。社会全体が環境に対して感度が鈍いとどのようなことになるか、という視点も必要である。
 四日市喘息においても「職住接近」が工場労働の望ましい形であるとの確信のもとで街作りが行われたのである。そしていずれも「事実が発生してからの規制」という概念の範囲であった。
 ところで、現代、つまり「予防原則」の時代になって、もっとも大きな問題は「害のないものの対策を打つ」ということであり、その典型的なものがダイオキシンである。
ダイオキシンはまずその発生源で錯覚された。図 17に示すように1970年には現在の20倍程度のダイオキシンが日本国土に放出されていたが、発生源は農薬であり、「米」という主力食物をつくる土地に存在していた。



図 17 日本のダイオキシン類の推移

 後にダイオキシンの毒性がきわめて低いことが指摘されている。ダイオキシンを毒物としたのは予防原則からは妥当であったが、それが予防原則に基づいて行う仮の措置であることをしっかりと伝えるべきだっただろう。予防原則を適用した場合の行政的措置と被害が生じた場合における行動規範、指導方法を決めておくことが必要だろう。つまり予防措置はその原理からして「被害なきものを規制する」ということになり、それは「被害が無いのに規制して別の被害を出した」ということになりかねないからである。最近では厚生省の水銀と魚の関係がそれに相当し、早くも「妊婦には魚は有益である」との反論が出されている。

第三回 終わり