10.  植物プランクトンの遺伝子操作

 もともと日射量が強く気温が高いような有利な状況に加えて、火力発電所の温排水、もしくは高温の排ガスそのものを利用して温度を高くした場合、どの程度の生産効率が期待できるのかを調べてみることにした。

 植物プランクトンは生物だから温度が高い方が生育が早いが、あまり温度が高いと死滅する。遺伝子工学を使って「高い温度に強い」植物プランクトンを作ることも考えられるが、「環境」を標榜しているこの検討で「遺伝子操作」まで踏み込むのかについては、また少し哲学的な検討をしておく必要がある。

 遺伝子を操作して現存する生物の性質を変えたり、新しい生物を作ることは原理的に可能である。それは広い意味で「品種改良」と同じ事だから、環境的にも、健康上も、また倫理的にも問題が無いと考えられる。

 つまり人間がこの世に生まれてきて以来、より収穫量が多い穀物、より速く走る馬を人為的に選び、もう少し積極的には異種の生物をかけあわせて新種の生物を作り出すことも行われてきた。また種無しスイカのように一代種で生産されるものもある。

 かなり大幅な遺伝子の操作を行ってきたのだから、ビーカーの中で遺伝子を操作するのと同じである。従って遺伝子操作作物は人間の食料に使用しても問題無い、と思われる。

 でも、わたしはまだ遺伝子操作で作物を作るのには疑問があると思う。「遺伝子操作が安全だ」という結論には一つの大きな仮定が入っている。その仮定とは「現在の科学の知識が正しければ」ということである。

 我々が今、科学的に「正しい」と考えていることが「本当に正しい」という事になるためには「長い時間を掛けた実証」がいる。人間の頭は錯覚しやすいし、これまでに人間が知覚したことが判断の根拠となる。

 たとえば、わたしは「ダイオキシンは猛毒ではない」と判断しているが、それはダイオキシンという化合物が最近作られた物ではなく、地球上に山火事が始まった時代からかなりの高い濃度で存在するものであり、また人間が火を使うようになってからも、さらに頻繁に接していたからである。

 少なくとも今から5万年前ぐらいから洞穴や縦穴住宅に住んでいた人類は、毎日のようにダイオキシンに接していた。我々も良くたき火をしては焼き芋を食べていた。焼き鳥はさらにダイオキシンを含む。

 それほど長い時間にわたって人間はダイオキシンに接していて何ともないのに、突然、「人類史上最大の毒物」などと言われてそれを信じるほど、わたしも早とちりはしない。「科学的手段」というのは案外、あやふやであることをよく知っている。

 生物のDNAはきわめて複雑で、特定の生物のDNAの塩基配列が判っているといっても、それは単に塩基の並び方が判っているだけで、DNAの上に書かれた情報の20%ぐらいも判っていないのである。まだ判っていない情報は「無意味な情報」とされているが、それが本当に無意味なのか、それとも判らないから無意味に見えるのか、どちらかである。

 また、DNAの構造が判ったのが1953年。電子顕微鏡が威力を発揮してウィルスがぞくぞく見つかりだしたのが1970年代。そしてタンパク質も病原になると判ったのが狂牛病の解明が進んだ1990年代である。我々がDNAと直結するような病原情報を得たのはごく最近なのである。

 ということで、本計画も現在の海水温の上限、32℃以下の条件での検討に限定した。もちろん、細菌などでは、これ以上の温度で生存するものは多いが、今回はこのように考えた。

 「自然との共生」と言葉では言うが、実に難しい。人間の文明が発達しなかった今から1万年ぐらい前の自然を「自然」と定義し、現代の日本人の生活を維持しようとすると、おそらく1億人の1000分の1ぐらいの人口しか生きられないだろうから10万人という事になる。

 そこまで極端に考えずに、江戸時代の自然を「自然」とすると、500分の1ぐらいだから20万人は生存できるだろう。これには反論が予想されて「江戸時代の人口は3000万人だった」ということになるが、それは人間一人当たりが、今と比較して1000分の1以下のエネルギーや物質を使っていたからである。

 現代は科学が進んでいるから、江戸時代との比較をするのは大変、難しいが、まずは100万人以上が日本で生存する場合にはかなり生活程度を落とさなければならないと予想される。

 もう一つの考え方は、現在のフィンランドのような自然豊かな生活を「自然」と定義した場合で、フィンランドの国土面積と日本とを比較すると、だいたい日本には500万人程度が生活できる。でもこれは「石油をかなり使った場合」であり、「自然との共生」は石油文明の下で行われる。

 では、「自然からの恵み」だけを使って「江戸時代のレベルの自然と共生する」ということになると、せいぜい数十万人が限界ということになる。

 全く別の考え方で、「自然というのはコンクリートで良い。生物は家畜や街路樹でよい」とすれば、森林をすべて伐採して太陽電池を並べる事も可能になるので、かなりの人口を養うことができるだろう。

 つまり、現在、我々が使う「自然との共生」というのは、定義を曖昧にすることによって何とでも言える、一つの免罪符に過ぎないのである。この計画でも二酸化炭素を循環し、植物プランクトンから効率よく魚介類をとるので、浮ついた環境論なら「環境に優しい計画」ということになるが、果たして自然を改造し植物プランクトンを高い効率で増殖させ、それをあたかも命の無いもののように大量に殺戮するのが環境に良い計画なのだろうか?

 我々が環境の大切さを理解したのは1960年代の終わりである。まだ40年ほどしか経っていない。あまりに人間本位である環境という定義をどうするのか、それはこの計画のような具体的な思考実験を経て徐々に正しくなっていくものなのだろう。

つづく