環境盗人
(かんきょうぬすっと)
毎日、人のものを盗んでいる泥棒が、額に汗して真地面に働いている人に「人のものを盗むんではいけない。人間には道徳というものがある」と正面切って言ったとする。言われた方の真面目な人は、「キョトンとする」「鼻白む」「あきれる」といったところだろう。
でも、現代の環境運動や環境政策は、他人に説教する泥棒に似ている。
環境破壊、資源枯渇、地球温暖化、そしてオゾン層の破壊など大型の環境問題が人類の将来に対して悪い影響があり、それを起こしているのは、アメリカ、日本、西ヨーロッパであり、他の国はほとんど関係ない。人類が使っている資源や廃棄物の5分の4を出している人たちが、人工の5分の1というのが現状である。
もちろん、日本人は豊かな方の5分の1に入っている。
「ものを盗む」というのが個人レベルで「他人の所有物を盗む」ということであり、環境や資源が「将来にわたって人類共通の所有物」であるとすると、資源を枯渇させ、環境を破壊するのは個人レベルでものを盗んでいるのに等しい。
日本人は地球全体から見ると、自分に割り当てられた資源や環境汚染の分をはるかに超えた量を使い、廃棄物を出している。もし、日本人が「環境を大切にする」というなら、まず日本人の資源の消費量を世界平均にしなければならず、そのためには少なくとも現在の使用量を現在の3分の1にしなければならない。
国民一人あたりの資源の使用量は、その人の所得に比例し、所得が多ければ資源の使用量も増え、資源を使用すれば廃棄物はそれと同じ量がでるので、もし「環境盗人である日本人が他人に「環境は大切です」という為には」、日本人が所得を現在の3分の1にしなければならない。
もちろん、リサイクルや二酸化炭素抑制などをしても自分が盗人では無くなるわけではない。リサイクルはすればするほど資源を使うので論外だが、たとえば「毒物を使わないようにする」などは多少、環境の改善になる。でも、この行為は「泥棒が止められないから、稼ぎの中から少し出して慈善事業をする」という類のもので、悪は悪である。
人間は悪いことをしていると心が咎めて、なにか良いことで心の傷を癒そうとする。そのこと自体は実に人間らしい行為で、人の心の中にある性善傾向が出ていると思う。でも、やはり泥棒を止めるのが本当で、泥棒を続けていて慈善事業をするのはいただけない。
このことをアメリカ人に言っても無意味である。なぜなら、彼らは「白人男性」だけは人間だがそれ以外は人ではないと固く信じているからである。つまりアメリカ人に「地球の資源や環境は人類共通の財産だから、みんなで平等に分けよう」と言うと、「それは違う。人間の価値はその能力で決まる。だから力のあるものがその分だけよけいにとる。それが平等だ」というだろう。
「人は生まれながらに平等」「人の命は地球より重い」などは、アメリカ人やヨーロッパ人が自分たちの豪華な生活をカモフラージュするために作った建前であり、現実は違う。
でも、日本人、特に環境問題を一所懸命にやっている人たちは、本当は心が綺麗で優しい。それなのにヨーロッパやアメリカの作戦に引っかかって茶番劇の手伝いをさせられているのがいかにも残念である。
わたし達、日本人は本来、人間同士はまったく平等であり、日本には古来、天皇と庶民以外の階級はない。天皇陛下も「現人神」、つまり天照大神以来の日本の神様だから別扱いになっているのであって、天皇陛下が「人間宣言」をしたら、日本人の感覚ではご引退されなければならない。
日本人はさらに動物との間も平等であり、自然とともに生きてきた。ヨーロッパやアメリカは自分の力が強ければ相手を倒してもよいから、自然は征服するものである。でも日本は自然を征服せず、自然にとけ込む。
人間同士が平等、動物とも平等、そして自然の中にとけ込む人生観を持っていれば、まず環境運動を考える資格があるというものだろう。それは「人のものを盗んではいけない」と思っている人と「警察がいなければ盗んでも良い」と信じている人との差である。
ところで、わたし達は本当に所得を3分の1に出来るだろうか?
私も悩んだが、実は出来ない。毎月、使えるお金を使っていたら一向に消費生活が直らないので、環境に少しでも良い生活をしようと節約をするとお金があまる。あまるので、それを貯金すると、たぶん、銀行は金庫に仕舞っておかないで、企業に貸すだろう。企業はその資金で「拡大再生産」をするので私が自分で使うより始末が悪い。
かといって税金で納めると、国が道路公団に回して道路を造る。道路は生産効率を高め、国土を壊していくので、これも困る。結局、私は、今もらっている給与を返納するしかないが、その覚悟はまだついていない。
だから、私は「環境を良くしよう」と言えない。私が言えるのは「動物や自然と人間の関係をかえよう。都市でも動物が住めるようにしよう」という事だけで、その運動は少しずつしている。私はそれしかできないかも知れない。