自然は循環しない



 日本の紅葉は格別に美しい。「錦の絨毯を敷き詰めた」とはよく言ったもので秋の蔵王に行くとそれこそこの世のものとは思えない景色を堪能することができる。紅葉と富士山を写した下の写真は日本の四季が豊かで美しいことを心の底から感じることができる。

 この美しい自然をもつ日本に生まれたことを本当に良かったと思う。


(富士山の美しい写真を撮り続けておられる菅沼さんの作品)



 植物の専門の方のお話をお伺いすると、日本の紅葉が「錦」のようなのは、日本の広葉樹林を構成する木の種類が多いからで、20数種類を数えるそうである。これに対してヨーロッパの紅葉も見事であるが若干、色彩の複雑さにおいて不足する。樹木の種類や数によるらしい。

 紅葉の美しさを愛でるのに日本とヨーロッパの優劣を言っても意味もない、美しいものは美しい。でも、日本の自然は格別美しい。美しいものは解剖したくない。解剖しなくても美しいものは美しい。でも、少し中身を見ることとしたい。

 落ち葉はなぜ赤いのか?葉っぱは何故、緑色なのか?

 葉っぱが緑色であることは葉緑素というもので光合成をしているから緑である。光合成で空気中の二酸化炭素を固定してセルローズにする。それを我々草食動物は食糧にしている。だから葉は緑だ。

 紅葉と言うけれど、赤、茶、そして黄色がある。葉が黄色くなるのは光合成がいらないので葉緑素の緑が無くなると自然に黄色になる。茶色は落ち葉を落とすときに葉の近くにある排泄物を落ち葉の方に移動させる。その排泄物の色が茶色だから。そして赤は気温が低下するとできる色素で葉緑素が死ぬと赤い色素の色が目立つようになる。それぞれ哀しい終わりの色である。でも生きているものには終わりがある。

 私も紅葉のように綺麗に死にたい。

 どんな樹木も寒くなると葉を落とすわけではない。常緑樹といわれる樹木は紅葉もしないでいつも緑の葉をつけている。だから葉も木と一緒に生涯を共にするかというとそうではない。常緑樹の葉は春から初夏にかけて落ちる。葉は盛んに活動をするので柔軟な作りである。だから昆虫から攻撃され、表面は激しい外気の化学的攻撃を受ける。

 硬い木の幹でも表層(皮)は一年しか持たない。皮の内側には形成層があり、そこで出来た細胞のいくらかは樹木の外側にでる。それがコルク層になり最後に硬い樹皮となって木を守る。そのような頑丈な樹皮でも一年経つと皮が落ち、内部からコルク層が皮になった新しい樹皮が木を守る。まして葉のような活発な活動をする組織は外気に長く耐えられるわけではないので、定期的に捨てなければならないのである。

 万物流転、この原理だけは如何に植物とて逃れることは出来ぬ。生けるもの等しく死に、やがて若きものが栄える。そうでなければ後から来るものは面白くない。このことは深い意味を持っている。ここでそれを詳細に述べることはできないが、生き物は自らのシステムを使って外界からエネルギーや物質を取り込み、それで若返ることができるのに、なぜかしない。

 「生きている」ということは食事をとり、エネルギーに変え、そして毎日、新しくすることができる存在である。そのために私たちの体も80歳も使える。物理化学には「エントロピー増大の法則」というのがあり、無生物は増大したエントロピーを自分の力で元に戻すことはできないが、「命」はそれができる。それが命の大きな働きである。

 その「命」も老化の法則を守る。何故かを科学的に説明することはできないが、おそらくは「一つの個体を繰り返し使うより、一度、それを捨てて新しい個体で勝負した方が勝つ」という進化の原則が働いているからだろう。私たちの体も頭も古いものが少しずつ蓄積してそれを除くことができない。

 そうは言っても、私たちの頭に比較すれば葉は簡単だ。それなのに、樹木はなぜ落ち葉をつくるのだろう?なぜ再利用しないのであろうか?落ち葉はなぜ、リサイクルしないのだろうか?自然はなぜ循環しないのだろうか?

 樹木は太陽エネルギーで生きている。太陽エネルギーで生きるというのは大変なことで、とにかくエネルギー密度が低い。エネルギー密度が低いということはその補足に膨大な装置を要すると言うことである。





 表からわかるように、現在、エネルギーの主力である蒸気タービンが3万から200万kW/m2であり、太陽光は快晴で太陽が中天でも1kW/m2しか過ぎない。太陽の光と石油のようなものを燃焼させた時との間に1万倍以上のエネルギー密度の差がある。太陽は暖かいがずいぶん穏やかなエネルギーなのだ。

 それに太陽はいつも晴天で中天にいるとは限らない。下の表で判るように、快晴で太陽が中天にあれば1,000W/m2のエネルギーが降り注ぐが、日本の平均では145W/m2、つまり8分の1しか太陽の光は届かない。冬はもっと太陽が傾く。それに北国では一日中どんよりとした雲に覆われることもたびたびだ。だから寒い。



 私たちは太陽が出ていない日はストーブを焚いたり、買い置きの食糧を調理すれば良いが、動けない植物は太陽の光だけが頼りだから、思うようにはいかない。特に冬は太陽の光が乏しいので少しでもエネルギーの消耗を防がなければならないし、それには葉を落としてジッとしているにしくはない。だから落ち葉を作る。どうせ落とすなら排泄物はそこに全部貯める。その結果、落ち葉は黄色い。

 でも捨てる落ち場の中に排泄物を詰めて捨てるのはなかなか偉い。このような行動は落ち葉だけではない。

 人間の体でも捨てるものには毒を貯める。髪の毛や爪には血液中の水銀やカドミウムを貯めて、散髪屋に行ったときにそれを落とす。シトシンのような孤立電子対を複数もった元素からなるアミノ酸を使ってタンパクを作る。そのタンパクが血中の水銀やカドミウムと錯体を作り、血中から有害元素を取り除く。

 生物はシビアーである。そのシビアーな生物が落ち葉を作り、落ちた葉は「リサイクル」せずに排泄物を詰めて捨てる。

 落ち葉はやがて地に落ち、それを昆虫は宿にし、微生物は食糧にして二酸化炭素とする。空気中の炭素はやがて空気中の二酸化炭素にかえる。そして再び、それは葉となる。

 じゃあ、循環しているじゃないか!と言う人もいる。そうではない。二酸化炭素というのはもっともエネルギーが低い化合物で、まずはそこまで落とす。二酸化炭素まで落としたものを再利用してもそれは「循環」ではない。もしそれを循環と言えば、地球上のものはどのようなシステムをとっても循環以外には方法がない。核反応が働かなければ核の変換は起らないから、所詮、循環する以外に方法はない。この循環には別の学術的用語があり、それを「質量保存則」「物質不滅の法則」とよび、これはこれでどんな状態でも成り立つ。

 もし、落ち葉を循環と言うなら「循環型社会」という概念は成立しない。どんなやり方をしても循環だから、すべてこの世は「循環型社会」になるので、循環の為の法律や活動などは無意味になる。

 「自然界のものは老化する」という大原則があり、それが全てに働く。そしてそのことはリサイクルという概念を人間が作り出す前には自然界にはなかった。もし、将来、老化を防止できれば、落ち葉はなくなり植物界にも「循環型社会」が訪れるだろう。でも植物はそのような努力はしない。物質が老化するのは神の摂理であり、それを覆してもろくなことが無いからである。

 生物が循環しているように見えるのは、「資源が供給される速度より速くは活動しない」という原則を守るからである。つまり人間以外の生物は「出来るものしか利用しない」という行動規範だが、1万年ほど前にできた人間の文明は「無理矢理作って利用する」という方式を選択した。その時から人間は限りある存在になったのである。

 人間という生物は面白いもので、初めてDNAの情報より1,000倍も多くの情報を中枢神経系に持つことができた。その情報力は猛烈な力があり、今や生物界の王者としてしたい放題である。でも、人間の頭脳の思考力には限りがある。「自然界は循環している」などはその一例で、大学の先生やかなり知識のある人達が「循環型社会は可能だ」とか「江戸時代は循環型だった」「自然は循環している」と発言される。

 そのような文章や発言に接すると、進化論の反論に手を焼いたダーウィンがかつて呟いた言葉を思い起こす。

 「人間は正しいことを信じるのではなく、信じたいことを正しいと思う」