人はなぜ、環境に優しい生活があると考えるのか?


 リサイクルをはじめとした現在の「エコ活動」が、環境を改善し、持続性社会への希望はどこにあるのだろうか?


1  現代人は何故、循環型社会があり得ると考えるのか?

 日本の年間使用物質量は約20億トンであり、最終的に廃棄物として把握されているのは2億トン強である。この2億トン強を全て回収しても循環率は10%程度にしかならない。またこの2億トン強を回収して輸入資源と同レベルの品位にするために7億トン程度の新たな資源が必要となるので、リサイクルは環境改善に有効な手段ではない。循環型社会が成立しない根本的な理由は、「物質資源は活動に伴う消耗という点でエネルギー資源に換算しうるものであり、エネルギー資源は不可逆的に損耗すること」にある。またリサイクルがかえって資源を消費する大きな理由は、「拡散の不可逆性(輸送)が大きいことと、理学的指標(エントロピー)による不可逆性より工学的指標(分離作業量、製造プロセス作業量など)の寄与が大きい」ことに因っている。

 一方、日本人の多くが循環型社会はあり得ると考える第一の理由は、専門家が部分的計算で結論を導き出していることであるが、それは例えば「二次方程式の根の計算をする時に、身近に平方根の表がないので平方根の計算をしない」という方法に相当し、学問的には到底、正しいとは認定できない。しかし、社会的には「希望にそった数値を求めることができ、かつ第三者が計算間違いを指摘することが難しい」というこの方法の特徴が有効に働き、学術論文などの査読を通過するが故に、議論を紛糾させる元となっている。第二の理由は、「循環したい」という希望、あるいは「循環型基本法が成立したのだから、物質循環は環境に良いと仮定する」という非学術的要因に因っていると考えている。また、企業やリサイクルに携わっている機関は経験的な数字を掴んでいるが公表していない。


2  現代人は何故、省エネルギーがあり得るのかと考えるのか?

 10%の省エネルギーは直接的に10%のエネルギー削減をもたらすが、直ちに新しい10%の購買量増を招く。さらに現代のように国際的に開かれた経済環境の中にいる場合には基礎的経済力が高まるので、さらに10%内外の購買量増となる。つまり省エネルギーがエネルギー使用量の削減につながるためには、削減分を別のシステムで吸収する必要があるが、現在のところそれを実行できる政治・経済システムはない。

 宗教革命と産業革命以来、人類の生産力は格段に高まった。その理由は宗教革命によって勤勉が善とされ、産業革命で人類が大量生産の具体的な手段を得たからである。例えば、18世紀初頭、10㍍であった紡糸速度は18世紀末には10,000㍍になった。それは労働時間が1,000分の1に短縮されたのではなく、生産量が1,000倍になることだった。それから200年を経るが、人類は効率や省エネルギーの努力を生産量増以外の結果につながる手法を考案していない。


3  現代人は何故、環境に優しい生活があり得ると考えるのか?

 ある人が月30万円で生活をしていて、ある日、環境に目覚め、電灯をこまめに消したり、タクシーの使用をやめて歩くことにした。生活が地味になったので25万円で生活ができるようになったが、残りの5万円の措置ができない・・・このことから判るように「環境にやさしい生活」というキャッチフレーズはあるが、実態はない。企業が製造する製品やサービスも同様であり、真に環境に優しい製品を作り得たとすると原単位が下がるので製品は安くなり、売上高が下がる。現在の企業会計ではその損失分を販売量増で補うことになる。

 現代人が環境に優しい生活が存在すると考えるのは、工業の発展段階の途上で発展の歪みが生じた時の記憶が残っているからである。国の環境の内容はその国の工業の発展段階で決定される。1950年代の水俣病、1970年代のスモッグがその典型的なものであり、すでに現在ではこの種の危険性はほとんど消滅している。しかし、社会運動や報道、利害関係が絡むので環境は幻想化し、それに伴った架空の研究や行動が行われるようになる。この現状をもたらしたのは、東大和田先生がいわれる「混乱の要因は科学の力の不足にある」という表現によく示されている。

 有害物や地球温暖化に関する極端な論文、学術的虚偽と報道は幻想化された環境問題を学問の領域に引き込んでいる。ダイオキシンの発生原因は農薬(焼却ではない)、ダイオキシンの毒性は弱い(猛毒ではない)、地球温暖化は太陽活動(二酸化炭素ではない)、燃料電池自動車や森林が二酸化炭素の削減に役立たない・・・など幻想はここに極まっている。


4  「環境」と「それでも地球は回る」のか?

 ガリレオは地動説が社会と人の心を乱し、教会の利権を損なうという理由で、地動説の撤回を要求され、迫害された。そのことの反省から「それでも地球は回っている」という概念が広く近代社会で認められてきた。それは社会がどのような状態にあり、どのように進もうとしていても学問が自由に発言すること、つまり「それでも・・・」は社会の正しい発展にとって必要である、そしてその勇気を尊重しようということであった。

著者の仕事はガリレオとは比較にならないほど小さいが、「リサイクルしてはいけない」を出版して以来、現在に至るまで同じような境遇にいる。まず、最初は指導的な学者からも「国民こぞってリサイクルを進めようとしているときに、ケシカラン!」と強いお叱りを受けた。現代の科学技術システムや学問体制は、政府の方針に沿っている必要がある。たとえばいわゆる3Rには巨額の研究資金が流れ、「リサイクル技術を造るための研究」は申請が通るが、「リサイクルせずに焼却して人工鉱山を作り資源とする」という研究には公的資金は期待できない。工学のように研究資金が命綱である学問分野では政府の方針に従わない学者は虫干しにされる危険を伴う。

 しかし、社会的に責任があるのは学問だけだろうか?学者が政府方針に反する学術的見解を出すことによって研究費の獲得が困難になることと、政府方針に従わないから企業が種々のビジネス上の不利を受けることとは同質である。少なくとも企業が大学などの研究機関に特別な尊敬を払わないとしたら、企業もまたその社会的責任から「それでも・・・」が要求されよう。


5  宗教革命と産業革命の頸木から産業界は脱することができるか?

 物質の使用がエネルギー消費に100%換算することができ、エネルギー消費が不可逆であることから、化石資源を使用した人間社会の活動は持続性がない。従って、仮に本気で持続性社会を築く努力をするなら、

1)エネルギー使用の上限を定める 
2)その制限の中で人間と他の動植物の使用割合(シェアー)を定める 
3)その上で宗教革命(勤勉)と産業革命(効率的物質生産)を軸とする概念を変更する 
ことが前提であると考えられる。この研究は膨大な努力を要するが、新しい夢のある活動を誕生させるだろう。

生物の活動は「寝る、食べる、じゃれる」で構成されているが、「寝る、食べる」に要する時間が短くなり、「じゃれる」為に必要な物質を際限なく供給する産業革命以来の資本主義社会システムから、じゃれる時間を精神活動の成果で満足する方向に向かうと著者は考えている。

 著者は環境に投入している資金、努力、頭脳をまずこの3つの前提に注ぎ、近未来の持続性社会の描画を行ってから、具体的行動に移るのが適切と考えている。


おわりに

 70年前の日本社会は軍事の中にあった。そこでは独立を保ちアジアにおける覇権を維持するために機関銃を製造することは最善の行為であった。40年前の日本は高度成長の最中にあった。そこでは機関銃を全面否定し、可能な限り効率的に大量に生産することが最善であった。そして10年前から俄に浮上した環境社会では、大量生産を全面否定し、環境にやさしい製品と生活が善とされている。戦争自体が悪ではなく戦争に敗れたことが悪であり、大量生産自体は悪ではなく廃棄物貯蔵所を作り間違ったことが悪なら、現代の善もまた30年後には全面否定されるだろう。直前の社会の基本的規範を全面否定する現代日本社会には反論を許さないシステムの大きな欠陥が感じられる。それは直接的な当事者の利害にはかなう場合があるだろうが、子々孫々にわたる日本国にはどうだろうか?
                           
 

参考図書など
1. Brown H, The Wisdom of Science, (1986), Cambridge University Press.
2. Skinner, B.J., "Earth Resources", Prentice-Hall Inc., New Jersey (1986)
3. メドウスD H(大来佐武郎訳), 成長の限界, (1972), ダイヤモンド社
4. オルテガ著、桑名一博、「大衆の反逆」排水社 (1991)
5. 大場英樹,「環境問題と世界史」,公害対策技術同友会,(1979)
6. 武田邦彦、「リサイクル幻想」(文春新書)文芸春秋社 (2000)
7. 武田邦彦、「エコロジー幻想」、青春出版、(2001)