食と環境


はじめに

 日本にとって自動車や家電製品の生産は重要だ。なぜかというと自動車を輸出して外貨を獲得しないと、石油も鉄鉱石も買えない。かつて、日本は金属の輸出国であり、中国地方からは銅などを輸出し、別子銅山、足尾銅山などの多くの銅山があった。しかし、全ての日本の工業資源は枯渇し、現在では、石油石炭天然ガスのようなエネルギー資源も、鉄鉱石、銅鉱石、ボーキサイトなどの金属資源もすべて輸入に頼っている。だから、自動車や家電製品を作っている会社に感謝しなければならない。私たちは省エネルギーとか節約などと言っているが、相変わらず物質の消費は多く、それも年々増加している。

 でも、本当に工業製品に注目するのが正しいのだろうか?

 人にはいろいろな意見があるから、著者の考えが正しいかどうか判らないが、著者は次のように考えている。

 ある国の国民が豊かな生活をするための基礎的な条件は、まず、空気や水が綺麗で、生活環境が自然と調和し、田畑がよく整備され、豊かな食物に恵まれていることだ。それができてのち、テレビがあり、自動車が必要となる。人間にとってまず大切なのは「命」である。著者がリサイクルに苦言を呈しているのは、たとえば建築資材リサイクル法ができて、建築資材をリサイクルする。そのこと自体は悪いことではない。しかし、リサイクルする材料は使い終わった材料なので劣化が激しく、きれい事をいっても結局、路盤材などに使用することになる。そうすると、日本の土地は少しずつコンクリートやアスファルトで覆われるはずだ。日本が一年に使用する建築資材をかりに全部リサイクルして地面に敷き詰めると、日本の土は6年ですべて廃材で覆われる。

 日本の耕地は廃材で覆うほど、不要なものではない。それどころか大切で貴重な資産だ。

 日本の耕地が危機に瀕している時である。リサイクルをするにしても、建築資材のことだけを考えるのではなく、日本全体の将来を考えなければならない。そうしないと、私たちの子孫は「おじいちゃん、なんでこんなにコンクリートで覆ったの?」と聞かれることになるだろう。その時、「おじいちゃんはリサイクルだけしか頭になかったのよ」と説明をしなければならない。

 そんな酷いことにならないように、ここでは食糧自給率など基礎的なことを確かめながら、生ゴミのリサイクルを考えたい。


1  自給率を考える

 まず基礎的な数字として食糧自給率を確認する。次の図にあるように日本は財力がある国の中では酷い状態で、まるで農業政策がないように感じられる。今や自給率は40%程度で、先進国の中で断然、低いし、その傾向は徐々に著しくなってきている。

図 1 先進国の食糧自給率(カロリーベース)

 食糧自給率の低い国は必然的に食料輸入が多い。特に日本は圧倒的である。輸入量は次のグラフにあるように日本が断然トップで、その金額は膨大だ。国内の農業が危機に瀕しているのに、これほど多くの食糧を輸入しているのである。

 
図 2 1997年の食糧の輸出入(左 輸入, 右 輸出)


2  食べ残しを考える

 食糧自給率が低いということはその国が食糧に困っていることを想定させる。困っていなければ食糧は自給するからである。各国とも生きていく上での食糧確保はきわめて大切なので、自給率を高めようと努力するけれど、それが達成できないことを意味しているからである。しかし、現代の日本は違う。

図 3 平成9年度の京都市の食べ残し調査

 図 3は京都市の食べ残し調査結果であるが、それによると平均して40%の食糧の食べ残しがあるとされる。40%の食糧自給率で40%の食べ残しというのはどういうことだろうか?ここまで日本人は異常になったのだろうか?同じような指摘が図 4に示す農業白書でも報告されている。年々、食べ残し量は増えている。

図 4 農業白書から


3  リサイクルを考える

 著者は「リサイクル」が議論なしに「善いこと」とされたことにはそれなりの社会的な意味があると考えている。しかし、多くのリサイクルが環境を汚し、倫理を崩壊させていることは間違いない。生ゴミのリサイクルに置いても、当然ながら、

1)食べ残しをしない 
2)それでも残るものをどうするか、

という順序でものを考えていかなければならない。現在のように、食糧を自給せず、畑は荒れ放題、それでいて、残った生ゴミをリサイクルすると、リサイクルした分だけ食糧が再生産できるような錯覚に襲われている。

 第一、生ゴミをリサイクルしても、リサイクルした分だけ食物が出来るわけではない。堆肥などにしたら多少はその価値を拾うことができるが、大半は無駄になる。たとえば、ご飯を食べずに畑にすて「これはリサイクルだ」というのは詭弁のように感じられる。第二に、生ゴミをリサイクルできるからといって、それが「食べ残しの免罪符」なるわけでもない。生ゴミをリサイクルするというのは多少の生産量アップになるだけで、もともと貴重な食糧を肥料にするという考えが間違っている。食糧はすべていただき、どうしても食べられないところを堆肥などにするべきであろう。

 まして、現代の日本の畑は化学肥料と殺虫剤などで保たれている。少しでも食糧を余さずに食べることが物質資源の利用や畑の荒廃を防ぐ上で必要であろう。

図 5 各国の肥料消費量(石油つけ農業の日本)2000年

 食糧のリサイクルはさらに大きな問題を抱えている。

 現代の日本で使用している工業製品中に含まれる毒物の平均濃度は環境規制で示されている許容量の45,000倍に当たる。このうちのほとんどは鉛であるが、それでも毒物は満遍なく我々の身の回りにある。その一部は確実に生ゴミやその他の廃棄物に混入する。このような大量の毒性物質を使うこと自体が問題であるが、それも現代の日本人の選択である。従って、そのような現実を見て、リサイクルも考えなければならない。著者らの計算では循環型社会における毒性物質の蓄積はかなりのものであり、その浄化には相当の負荷がかかる(巻末の参考にデータなどをつけた)。

 生ゴミを安全にリサイクルできる範囲もあるが、著者はそれより、食糧自給率をあげ、食べ残しを減らし、工業製品中の毒性物質濃度を低下させることがまずしなければならないことでそれを放置したまま、もったいないからリサイクルするというのは日本の農業を正常化する方向には向かわないと考えている。

 また、ある時に家庭科の先生にお聞きしたのだが、「学校で生ゴミをリサイクルした場合、生徒さんがそれを食べるのなら、なぜ畑の有害物質を測定しないのですか?心配はされないのですか?」とお聞きしたところ、まじめな先生方は一様にビックリして、それ以後、生ゴミをリサイクルするのを考えたという話である。栽培をする人にとって畑が汚れることは大変なことで、それを食べる人のことを考えると慎重を期さなければならない。

 「どういう農業がよいだろうか?」というあまりに当たり前のこの問いが現代の日本では答えることが出来ないでいる。その農地にあった生産量を保ち、少しも残さず食糧を消費し、ただ食べる楽しみで過剰に摂取し、「ダイエットの薬」を飲むなどは、日本人としての基本的な倫理に反することとして社会的に糾弾しなければならない。新聞やテレビも環境問題を錯覚している。

 農業従事者が生き甲斐をもって食糧生産に向かうことができるようにしなければならず、それは「お金」ではなく、国民の尊敬心であると著者は考える。その点で消費者も問題であるが、お金を第一に上げてきた農業生産者にも問題はあるだろう。


4  どうしてこのようになってしまったのか?

 日本人は自然とともに生き、自然の大切さを知っており、特に食糧に対する感謝の念が強い民族であった。本来、農耕を主体としていたので、そのような感覚が身に付いてきたと考えられる。しかし、大量生産とともに日本人は日本人の善い面を失い、欧米の模倣に奔走し、現代を作ってきた。この責任は庶民と言うより、欧米と接触の機会があった指導層に問題があると言えよう。また、日本人の異常な「食べ残し」には単に「お金が有り余っている」こと以外に、生活や人生について目標が定められず、日常的に不安で不満があり、それが過剰な食事を求めている結果とも言える。

 どんな理屈をいっても、どんなにリサイクルなどをしても、過剰に輸入し、その多くを食べ残し、食べ残しが多いからといってリサイクルするというのはあまりにも異常である。たしかに、万やむを得ず廃棄せざるを得ない食糧もあるが、「絶対に捨てない、絶対にリサイクルしない」という決意で食糧の利用をもう一度考え直してはどうだろうか?

 「食」というのは環境の基幹的要素である。まずはそれを他のもの、たとえば家電製品とか自動車と同様に考えることはできないだろう。家電製品などはもし施策が失敗すれば暫く使わなければ善いし、工場が汚染されて何年も生産できなくなることはない。それに対して毒物の含まれる生ゴミを畑に投入すれば、その害は長期間にわたる。また、その時に汚れた食物を口にする人もいる。すでに、日本は1970年にダイオキシンが発生する水田用農薬を多く使用し、日本におけるダイオキシンの発生量のほとんどが水田用農薬であった。

図 6 日本のダイオキシン発生要因

 幸い、ダイオキシンの毒性がそれほど強くなかったから良かったが、二度とこのような危険なことをしないように、農業従事者を先頭にして、日本人はこれらの教訓をいかし、食は大切なもの、という概念を日本社会に定着させることこそ望まれる。


5  参考

5.1  有害物質生産

 有害物質は2つの過程で生産される。第一には天然資源あるいは人工資源の中にもともと含まれる有害物質を精錬やリサイクルなどの手段で濃縮・同伴することであり、ヒ素の製造などがそれに相当する。第二は製造中あるいは使用中に新たに有害物質が発生する場合である。

 本稿で使用する「生産」「有害物質」及び「使用・拡散」などの概念はこれまでの工業社会で使用される概念と違う。それは現代工業化社会に於ける物質循環はまだ人類が経験していないことであり、そこでは新しい現象が起こるからである。

 第一に、本稿で言う「生産」とは、工業製品として生産されることだけを意味せず、人間の活動で人間社会あるいは自然に拡散する現象を意味する。たとえば、銅を採掘するときに地中から硫黄が同伴し、その硫黄の「使い道」がなく廃棄する場合でも「硫黄の生産」とされる。これは「人間が文化的生活をするために、副産物を廃棄して有用物だけを社会に持ち込む方法」と「人間を含めた環境全体に注目して行為を選択する方法」の概念の違いから来る。これまで「不要な物」が「生産」ではなかったのは、それが人間に役に立たないという理由であるが、環境という視点では考察の対象を人間の利得だけに絞ることが困難だからである。また、生産に代わる新しい用語を使用することも考えられるが、混乱を避けるために本稿では生産とした。

 第二にこれまで「有害物質」とは、主として人体に対して有害なものを意味していた。人間の活動が自然に大きな影響を与えることが少なかった第二次大戦以前、あるいはレイチェル・カーソンが「沈黙の春」で人工物の自然に対する影響を指摘する以前は、人間社会の活動がヒト以外の生物へ影響することは考慮されていなかった。これに対して、表 1の縦軸に示したように循環型社会では、「生態系や自然に損害を与える可能性のあるもの」「循環物質を劣化させる可能性があるもの」が有害物質として認識される(1)。すなわち前者は、循環型社会を構築する目的の一つとしての自然環境保護として、また後者は再利用する場合の材料としての価値を考慮に入れなければならない。地球環境保全という視点からの「有害物質」という概念は、「ヒトに対して」ということから「ヒト、ヒト以外の生物」及び「ヒトが使用する材料および非生物」に対する有害物にその概念を拡げることが求められている。

 また第三には、毒物の発生する過程や時期などの時間的な観点である。非循環型社会においては主として鉱業・製造業において有害物管理が行なわれるが、循環型社会においては表 1に示したように「自然を含めた全循環」と、「人間社会の循環に限定した人工循環」の区分も必要となる。

 以上の考察に基づき、それぞれの項目について具体的な元素・化合物などについて表 1に羅列した(2)。

表 1 循環型社会で蓄積が予想される有害物質


5.2  有害物質拡散

 循環型社会における有害物質の蓄積では、「有害物質の拡散」が特徴的である。非循環型社会においては少なくとも論理的には製造工程、または使用中に発生した有害物質は焼却炉などで適正に処理され、管理された廃棄物貯蔵所に格納される。これに対して循環型社会では本来有害物質を含まない製品が使用や回収過程で有害物質を含むことがある。たとえば生体に対する有害物質(毒性物質)の例では、蛍光灯、目覚まし時計のようなものがある。水銀が含まれる蛍光灯は製造時に「ガラス」という非毒性物質に「水銀」という毒性物質を密封することによって全体としては毒性を持つ。この製品は使用中も有害製品であり、かつ破損したり回収するときには全体が有害となる。毒性元素を含む電池を内蔵した目覚まし時計も同様で、この場合は製品構造としては一体化していないが、現実の使用状況では製品自体が有害で、回収時に時計本体と電池伴って回収されることが多い。

 2000年近傍に於ける元素系毒性物質と、それを含む工業製品をリストし、その回収状況を調査すると、表 2に見られるように自動車用鉛バッテリーを除く拡散性有害物質の多くが回収されていない可能性が高いことが判る(3)。

表 2 有害(生体)元素の拡散状況

 また有害物質の内、循環により他の材料に混合し、有害物質(劣化物質)に変化するものもある。後の節に示すスクラップ鉄中の銅や、polystyrene/ polyphenyleneether以外の高分子材料などがその例で混合による損害(劣化)はプラスチック全体の99.7%と計算される。廃棄直前までは社会に有用な物質が回収過程で混合した場合、劣化物質として働くという循環型社会の特徴を示している。

 現代社会が多くの毒性物質に囲まれていることを期せずして暴露したのが9.11の事件だった。この事件で崩れた貿易センタービルの残骸には規制値以上の毒性物質が含まれていて、「どこかの階に毒物の貯蔵庫があった」というミステリーじみた報道もあったが、「活動中のビルを粉にする」とどうなるかを示した具体的な例といえよう[4]。

図 7 毒物を規制値の数万倍含む工業コンプレックスの崩壊


5.3  有害物質の蓄積

5.3.1  蓄積過程

 有害物質の量は、図 1に示すようにインフラストラクチャーの建設過程、工業製品の製造過程、使用過程、そして回収過程で蓄積・増大し、リサイクルしないこと(廃棄すること)と有害物質を除去することによって減少する。たとえば、非循環過程(2000年近傍)での日本で、比較的調査をしやすい工業製品(建物を除く)5.4億㌧について調査をすると図 2に示したように資源時点では36万トンであった有害物質は最終的に5,000万トン程度に増大すると計算される(5)。

図 8 非循環過程での毒物蓄積・増加

 一方、循環型社会において、仮にリサイクル率が100%で有害物質の除去過程を有していない場合、新たに投入され、新たに発生する有害物質は系内に蓄積する。このことは化学工学をはじめとした多くの学問が示すところであり、一つの工場内で起こることが日本の規模に拡大されただけで、循環型社会に帰属する新しい現象ではない。循環システム(の左)と毒物蓄積のコンピューターシミュレーションの結果(の右)を図 3に示した(6)。

     
図 9 循環型社会に於ける毒物蓄積のモデル計算

 図 3の左は有害物質蓄積のモデルであり、循環系外から有害物質が除かれる工程は、リサイクル工程と有害物質除去工程であることがわかる。リサイクルは有害物質除去に対して負の効果を持つので、リサイクル率(r)が低ければ有害物質濃度は減少する。また除去率(s)が高ければ同様の効果をもたらす。従って、有害物質に対する社会の許容量を決定すれば、それに応じてrとsの最適値が決定される。すなわち、リサイクル率を高くすると除去率を高める必要があり、除去のための環境負荷が追加されることを意味している。


5.3.2  エントロピー評価

 宇宙が誕生して以来、全ての自然現象はエントロピーの増大の方向に沿って進み、永久機関の特許が許されないように、私たちはそれに反する現象を見出していない。従って、循環型社会の毒物蓄積と浄化もその原理に反して実施されないだろう。つまり、人間の活動によるエントロピーの減少を、周囲の自然のエントロピー増大が無制限に受け取るという20世紀までの考え方が通用せず、「環境問題」が人間社会の周辺に存在するエントロピーの制約を受けるということを意味している限り、環境を取り扱う時にはエントロピー増加を考慮せざるを得ない。

 環境に関わるエントロピーは、その基本式ΔS=lnΩ(ボルツマン定数は温度定義をエネルギー定義にして省略してある)を個別の現象に適応することによって計算され、それを表 3に示した(7)。

表 3 環境にかかわるエントロピー

 この中で循環型社会に於ける毒性物質の蓄積は、劣化のエントロピー(製造及び使用過程)と混合のエントロピー(主として使用と回収過程)の増大に起因している。有害物質と非有害物質が別々にある場合の数は、それらがバラバラにある場合の数に対して極めて大きく、このエントロピーの増大が有害物質の蓄積をもたらす。従って、もし有害物質の蓄積を防止しようとすると、それに応じた外部エントロピーの増大をもたらし、それは熱エントロピーと劣化エントロピーで主として補償される。このように、非循環型社会は製造及び使用中の製品のエントロピー減少と人間の活動を通じた減少を「廃棄物」という形で廃棄していたが、それを人間が利用できる形に回復することは熱力学的原理に反する可能性も高い。


5.4  有害物質の浄化技術

5.4.1 天然界における浄化

 最初に尾籠な話で恐縮であるが、川縁の家でお母さんがオシメを洗う。200グラムのオシメはすっかり綺麗になるがその代わり2Lの川の水はすっかり汚れて下流に流れていく。下流に流れていくこの汚い水が仮にそのまま再び上流から流れてきたらお母さんはオシメを洗わない。上流から流れてくる水が使えるのはその間に「自然の浄化作用」があるからに他ならないのである。

図 10 川の浄化作用

 自然の浄化作用は複雑なので、本稿でその全容を整理することはできないが、図 5に示したように浄化のエネルギーはすべて太陽から与えられ、それを直接的に、また生物の活動に変換して、さらには海面を照らす太陽の光が水を蒸発させ、さらにその水分が雲―雨―山頂からの落下という一連のポテンシャルエネルギーに変わって、川に流れを作り浄化していく。「自然の浄化」という用語はよく使用されるものであるが、その使用には注意する必要がある。自然は人間の活動と関わる部分と関わらない部分がある。人間が「自然の浄化」と呼ぶ作用の多くは人間にとって汚いものを綺麗にするというほどの意味しかもたないことが多い。自然は人間が不要なものもヒ素のような猛毒もその一部であり、エントロピーが高い状態にあるから価値がないともいえないのである。生物史としてみれば、初期の頃は酸素が猛毒であったことはよく知られており、数10億年にわたって地球は汚染し続けていたことになる。しかし、そのことによって新しく酸素を有効に使用する生物が誕生し、それが現在の私たちの社会を形成している。猛毒の酸素を作り出すことは「自然の浄化作用」と呼ぶのはふさわしくない。ここでは「自然の浄化」というよく使われてきた用語においても「環境」を問題にするときには新しい用語として慎重に取り扱わなければならないことを指摘したい。

 ところで人体に注目すると、活動に於いて発生する「有害物質」または「排泄物」は主として腎臓や肝臓で処理される。人間の活動量を血流量で見ると、全血流に対して25%が活動に、75%が浄化に使用されていることが判る。

図 11 人体内の血流

 現在日本は20億トンの資源を使用して500兆円の活動をしているが、仮に循環型社会を構築した場合の全体システムが人体と酷似しているとすると、追加して60億トンの資源を要するということになる。少なくともエネルギーは現在より数倍は必要になるだろう。

 現在の生物は37億年に及ぶ長い淘汰を経てそれなりに完成している。従って、有害物質の除去についても細かく複雑なシステムを持っている。その典型的な例の一つが髪の毛と爪である。この二つはタンパク質などの人体にとって有用な物質を含むのに、尿や汗などと同様に「外部に捨てる」。外部に捨てるのは劣化してくるからであり、劣化した髪の毛や爪を「リサイクル」するのは無駄になるので、体外に捨てる。体外に捨てるものなら単に捨てないで、その中に有害物質を含ませた方が効率的である。そこで水銀やヒ素と錯体を形成するシスティンを多く含むタンパクで毛髪を構成し、毛根の細胞で血液中の有害元素を新しく作られる毛に分配させる。

     
図 12 爪の発生とシスティン

 このように芸の細かい生物がなぜ、物質のリサイクルをしていないのだろうか?仮に手を伸ばせば食糧があるのに畑を耕す人はいないし、バナナが上から落ちてくるのに獲物と死闘を繰り返すサルもおかしい。食糧を作ったり、石油や鉄鉱石を作り出すにはかなりの労力が必要で、それより使い捨てが種としてはもっとも効率的であるのは当然だからである。


5.4.2  分離作業量評価

有害物質の除去は廃棄物という混合物(流量F、モル分率XF)から有害物質(同W,XW)、および回収元素(P,XP)に分離する操作に他ならない。このような標準的な分離操作に対してそれを理想的に行なった場合(ideal cascade)、どの程度の負荷を与えるかについてはすでに理論式が整えられており、資源・金属・石油化学・化学工学などの分野でその実績が積まれている。この分離作業量(separative work unit:SWU)という概念を使用して計算する(8)。理論式は、
   (1)
ただし、

を用いた。ここで、ΣLは分離総流量、fは分離ユニットに於ける分離係数、VFは価値関数で上式で示されたものである(9)。計算結果を表 4に示したが、自動車スクラップから鉄を取り出す場合を1.0としてSWU比をとると、自動車ダスト及び一般廃棄物の中の表に示した元素を分離する為の作業量は100-36,000倍にも及ぶ。従って社会的システムという点から見ると、自動車ダストあるいは一般廃棄物から有害物質を除去することは環境負荷を増大させる結果をまねく。

表 4 自動車ダストと一般廃棄物から毒性物質などを分離する分離作業量


5.5  有害物質からみたリサイクル限界

表 1に示したように有害物質は「人体などに対する毒性のあるもの(毒性物質)」と「材料を劣化させる物質(劣化物質)」に分かれる。人口25万人の自治体に於ける著者らの1997年の調査結果を整理すると、図 4に示したようにリサイクル率が高まると循環製品中の毒性物質の水銀当量濃度は上昇する。この自治体の場合、循環系内の毒性物質の除去プロセスは焼却が担当しており、廃棄物の焼却率は40%程度であるので、毒性物質蓄積という点からリサイクル率は20%以下に抑える必要がある。すなわち、リサイクルを進めることで焼却率が下がると毒性物質の除去率が低下し、循環系に於ける毒性物質の許容量を超える。従って、除去プロセスが限定される場合には循環系全体で解を求めることができず不健全になる場合もある。

図 13 リサイクル率と循環製品中の有害物質濃度(水銀当量換算)


5.6  除去技術

5.6.1  一括除去

 ここまでの検討で循環型社会の構築には毒物の浄化が必須であることが判ったが、循環物質中の有害物質の除去には、大きく分けて二つの方法がある。一つは従来から行なわれているように焼却によって有機物系の有害物質を二酸化炭素と水に変換し、焼却炉出口で有害物質を除去する方法であり、第二は個別の製品や類似の混合物から特定の元素を分離除去する方法である。前者はさらに、ストーカー炉、ガス化溶融炉など複数の炉のタイプが知られており、有害物質除去の概念としては、①焼却工程の後にバッグフィルター、吸着塔などの有害物質除去工程を設置するプロセス、②運転条件によって有害物質の排出方向を制御するプロセスに分かれる。

 ①の方法は従来から存在する多くの不純物除去システムが活用でき、②の方法は焼却炉の温度を高めて基本的には有機物を二酸化炭素と水に、金属は元素状態に、そして無機酸化物はそれぞれの特性に応じて分けることが行なわれる。多くの有機物はおおよそ800℃までで分解するが、多環環状化合物などはかなりの高温までグラファイト類似の構造になって分解が困難であり、また工業的焼却装置では炉内のショートパスが避けられず、運転温度や炉内設計はかなり精密におこなう必要がある。

図 14 典型的な有機物質の熱分解

 図 5に示したように典型的な有機物質の熱分解では1200℃以上の温度が必要と考えられる。また金属元素は塩素の存在によって低沸点になるものが多く、焼却における有害物質除去に関するハロゲンの効果を検討する必要がある(10)。現在のところ最も論理的な有害物質除去システムは、廃棄物を「圧縮―脱酸素―非酸素熱分解―純酸素吹き込みー純酸素中での酸化反応―高温シフト反応―急冷トラップー酸化物回収―ガス燃焼」のプロセスを経る方法であり、その場合の主要物質のバランスを図 6に示す(11)。炉内温度は1200-1600℃で殆どの有機物は分解する。またシリカ、鉄などの比較的量が多い元素は下部に、カドミウム、水銀、ヒ素などの有毒物は上部に行く可能性が高いが、まだ有害物質を完全に分離することは証明されていない。

図 15 典型的な有害物質除去プロセスとしての焼却


5.6.2  個別除去

 一方、廃棄物を工業製品や部品毎に集めて、そこから有害物質を一づつ除去していく社会プロセスがある。この場合、

1) すでに存在する天然資源を基礎とする分離技術によって除去できる場合
2) 新たに人工資源に特有の分離技術が求められる場合

がある。その典型的なものとして、鉄鋼精錬を例に挙げることができる。鉄鉱石から高炉―転炉を経て高い特性をもつ鋼材を製造する場合は天然の鉄鉱石の不純物を除き、酸化熱を発生する含有元素をエネルギー源として利用する。一方、スクラップ鉄などの人工資源を対象とする精錬では銅やスズなどの「トランプ・エレメント」が共存し、しかも鉄の殆どは還元状態にあるので高炉―転炉とは異なったプロセスを要し、図 7に示すように現実にはスクラップ鉄は電炉系で処理される(12)。

図 16 鉄の循環系(リサイクルしていないことに注意)

 図 7で特に注意を要するのは循環型の模範生と目されている鉄材も実際には有害物質の混入が原因となって「循環」していないということが判る。また鉄の中にある銅は1%より少ない場合は何とか使うことができるが、銅がかなりの量で含まれる場合は鉄が主成分であっても鉄の製錬工程では精錬することができず、銅精錬で鉄を不純物として除去せざるを得なくなる。ここで判ることは材料の循環は有害物質の挙動によって支配されている部分が多いということである。

 さらに、現代の電子工業などのように高度な工業製品の循環では、特有の分離技術が求められる場合として、

1) 異種元素が結合した金属間化合物からの有害物質の除去
2) 異なった物質が界面結合した複雑な複合物
3) 異なった材料や化合物が複雑に立体構造を為している組成物や構造物

がある。たとえば、化合物半導体としてのGa-Asや感光ドラムに使用するSe-Asがそれで、有害元素同士、あるいは有害元素と非有害元素が強固な結合を形成している。従って、これらの単体元素に分離精製するのは時として天然鉱石の精錬より困難なことが多い。Ga-Asは燃焼酸化法、Se-Asはソーダ酸化揮発分離法などが研究されている(13)。すなわち、このような方法で有害物質を除去するには個別の技術が必要であり、産業が高度化して多種多様になると有害物質除去のプロセス数も多くならざるを得ない。社会全体を考えた場合、有用な金属間化合物の使用を放棄して、循環型社会を構築する選択が望ましいか、あるいは多少複雑でも有用な機能性材料を使用し、焼却などの大規模工業で有害物質を回収するシステムを選択するべきかについての検討が必要である。しかし、金属間化合物などこれまでの多くの開発努力を無にする損害はできれば避けなければならないし、社会全体に有害物質除去のシステムを構築することが必要なら、損害を克服しなければならないこともあろう。


5.7  有害物質から見た廃棄物の概念

5.7.1  有害物質の定義と科学的取扱い

 廃棄物は物質としては工学が扱う対象物であっても、社会的な影響が強い。特に「有害物質」の内、人体や生体に影響のある物質については社会は鋭敏に反応するので、必ずしも工学的あるいは科学的データに基づかない場合もある。たとえば焼却で発生すると言われるダイオキシン類について図 6に示すようにダイオキシン類の摂取要因は主として農薬であり、焼却など他の要因の寄与は小さい。しかし、社会は焼却によってダイオキシンが発生していると認識されていると思われる。

 また、まだ確定的ではないが、ダイオキシン類自身の毒性についても強い疑義が示されている。ダイオキシンの最大の事故であった1976年のイタリア・セベソでは人間では死者はなく、被爆者3万人のうちクロルアクネ(ニキビ状のもの)の発症が152人であった。最も汚染が大きかった地区ではクロルアクネが発症した小児10名はダイオキシン量を最大8.4μg/kg、平均2.5μg/kg摂取したと推定されるが、クロルアクネ以外明らかな臨床的健康異常は見られず、肝機能も正常であった(14)。また、15年間にわたる高濃度曝露群の疫学的調査では、ダイオキシンを長期・高濃度曝露した場合、一日煙草数本の影響と同様であるという報告もある(15)。また同様に内分泌かく乱物質として生殖機能に障害があると報告されたbisphenol-Aも、その後の調査では実験結果に再現性が認められず、現在のところ低濃度曝露で内分泌かく乱効果が見られた研究はない(データが新しくなっていくのでインターネット情報の方が早い)。

 このようなことは、非鉄金属元素や放射能をもつ物質についても同様であり、学問的に明らかになった結果と社会が要因している毒性物質の定義や概念自体に大きな差がある。放射能を持つ廃棄物の場合、天然に存在する物質の100分の1程度の放射能を設定される。人体や生体にとっての有害物質は基本的にはこれまでの進化の過程で生物が接することが少なかった元素や化合物が「毒性物質」である。地上に酸素が少なかった30億年程度前には生物にとって酸素は猛毒であったと言われている。またバナジウムは地質時代の生物では多用された酸化還元元素であり、したがって地下から採掘される石油にはかなりの高濃度でバナジウムが含まれ、現存する生物でもホヤ、ナマコは未だにバナジウムを使用している。しかしすでに人間のDNAはバナジウムを有害物と認識する。このことは表 5に示すように生物が利用している元素は海水中に多く含まれている元素と関係があることによって判る(16)。

表 5 遷移金属元素の海水中濃度と生物の必要性
(◎:全てに必要。○:大半が必要、△:一部が必要、×:不必要、―:多分、不要)

 最近、Znが毒物とされ製品への使用制限が議論されている。しかし表 5に示したようにZnは人体や生物にとって必須元素であり、多くの酵素がZnの存在のもとでその機能を発揮する。あまりに人工的な環境が「生物としての人間」にとって「良い環境」であるかは即断できない。また、Pb,Hg,As,Cdなどを毒性物質として忌避する傾向があるが、「日本と人間社会」に限定した環境ではこのような元素は環境を破壊するが、「世界と自然」を念頭に置いた環境では、たとえばCuや石油のように有毒物を同伴する資源の方が環境破壊は大きい。人類はその長い歴史の中で自然界にある有用資源を「環境を破壊しない範囲で」活用してきた。工学が発達した今、これらの資源を単に危険だからという理由で排斥していくのは学問的に合理性に乏しいと考えられる。

 本稿では、循環型社会を構築するための大きなハードルの一つに有害物質の蓄積と浄化という問題があることを指摘したが、その有害物質というものの定義、ならびに社会的認識がかなり曖昧であることも同時に考慮しておかなければならないだろう。


5.7.2  循環型社会に於ける有害物から見た廃棄物の概念

 非循環型社会においては明確な廃棄物という概念があった。この場合の廃棄物という概念は「人間の使用した“カス”を自然に帰す前の過渡的段階」という意味であった。しかし、循環型社会においては人間が使用した“カス”は自然に帰すことなく、人間が利用する」という概念である。この概念が熱力学を中心として構築された近代科学の原理に反していることは間違いない。従って、廃棄物を人間が価値のるものとして利用する時に「自然環境を破壊しない物質やエネルギーの利用」が可能であるか?という設問に答えなければならない。そして、その具体的な提案や技術は誕生していない。

 また、なぜ「廃棄物は廃棄物か」というと廃棄物を環境中に放出すると環境を破壊するからに他ならない。なぜ環境を破壊するかというと廃棄物中に有害物質が含まれているか、もしくは廃棄物が量的に膨大でそれを廃棄する場所が適切ではないかによっている。たとえば「管理型廃棄物」に分類される物は有害物質が含まれていることを意味しており、循環型社会システムとしては有害物質の除去に失敗した特殊な形態であると定義しうる。

 このように廃棄物が廃棄物であるということは、廃棄物中の有害物質の有無によるので、循環型社会構築、あるいは廃棄物減量などの課題は有害物質の蓄積と除去にその中心があることが理解される。

名古屋大学 武田邦彦


参考図書
1)  那須昭子、化学工学会誌 vol.28, no.5, p.501-512
2)  武田邦彦、「リサイクル汚染列島」、青春出版 (2000)
3)  廃棄物減量化のための社会システムの評価に関する調査研究、クリーンジャパンセンター、p.83,平成11年3月、及び製品量については電池工業界http://www.baj.or.jp/total/index.htmlより1997年度の販売個数に換算。また自動車用鉛蓄バッテリーの平均重量はhttp://homepage.mac.com /sunx/tanpin.htmより。
4 ) 武田邦彦、日経新聞、書評、20030504
5  那須昭子、行本正雄、棚橋 満、武田邦彦、化学工学会第35回秋季大会、p.202 (2002.9.19)
6)  那須昭子、大場大司、寺田岳文、武田邦彦、資源・素材学会平成14年度春季大会、p.15-16 (2002.3.28)
7)  武田邦彦、応用物理学会結晶分科会講演、(2002.12.18) 学士会館
8)  武田邦彦、「分離のしくみ」、共立出版、(1988)
9)  C.J.King, Separation Processes, Tata Mcgraw hill, (1972)
10)  武田邦彦、J. Mass Spectrom. Soc. Jpn. 47(6), 340-348(1999)
11)  寺田岳文、大場大司、行本正雄、那須昭子、武田邦彦、日本燃焼学会第39回燃焼シンポジウム、no.39, p.119 (2001.11.21)
12)  坂田 直起、日本鉄鋼協会白石記念講座、1992年、及び鉄源協会、2001年
13)  藤澤敏治ら、Rescwe,(名古屋大学難処理人工物センター発行) p.7 (2001.3)
14)  和田 攻、学士会会報、 No.830, 2001年1号
15)  和田 孜、日本免疫学会発表、 (2002.9.19)
16)  F.Egami, J.Biochem., 77, 1165 (1975)