はじめに

 

 現代は「現実喪失の時代」と言われる。昔、父親は家の近くの田んぼで鍬をふるっていた。新しい田を切り開くときなどは大きな切り株にぶつかり悪戦苦闘する父親を見、そして少年である自分がいくら頑張ってもビクともしない大きな切り株を父親が掘り返すのを見て自然に父親に対する尊敬の念が湧いてきた。時に母親の作ったおにぎりを田で働く父親のもとに持って行き、それを二人で頬ばった。父親は遠くの山を指さしながらいろいろなことを教えてくれた。 

 何でも実感がある時代だった。 

 現代は違う。父親は息子の目の前では働いていないし、父親を見るときと言ったら酔っぱらって帰ってくるときか、日曜日にゴロゴロしている父親である。家族の生活を支えている生活の糧は銀行に振り込まれる無味乾燥な数字だけである。それでも家でゴロゴロしている父親を尊敬しろと言われる。確かに昼間、切り株を相手に悪戦苦闘している父親を見ていれば囲炉裏のそばでうたた寝をしている父親にそっと何かを掛けてやりたくなるが、昼間なにをしているか判らない父親に愛情は感じない。 

 現実喪失はシステム的にも我々を襲う。選挙速報を見ていると夜中の12時ごろ「茨城県2区は大接戦を演じています。その差はわずか100票足らずです!」とアナウンサーが絶叫する。もしその日の昼間に自分が投票していなければ、夜中に本当にデッドヒートをしているような錯覚にとらわれる。 

大災害の報道でも同じような現実喪失が起こる。「昨日までの死者は1200人でしたが、今日、1500人に増えました。」と報道される。この「死者」というのはこの一日で死亡した人の数なのか、それとも数日前に亡くなっている人がカウントされたという事なのか判らない。もし自分が災害現場にいれば既にすっかり片づけられていてここで新たに死者が出ないことはすぐ判る。 

 人間がサルから進化して以来、人間は自分の身の回りに起こることを直接、五感で知り、その外側のことを情報で知るという生活を送ってきた。先ほどの父親の例で言えば、毎日の生活は確かな現実であり、子供にとっては感覚的に捉えられる物である。そして遠くの町や昔のことは父親や母親から聞く情報なのである。しかし現代の我々は違う。ほとんどの知識は情報で与えられるので、身の回りは情報で固まっている。そのようなものを正しく理解し、捉えられるはずはない。自分の意見を形作るためには現実喪失の環境の中では無理である。 

 この本は「材料」の本である。そして出来るだけ現実に近く、材料が使われる状態に注目して書かれている。しかし所詮本は本であり、材料を実際に体験するのとは全く違う。その意味で、この本を勉強しても「材料とはこの様な物である」と思わないで欲しい。是非、機会を作って材料に直接触れ、合成し、成形して現実を自分の身の回りに寄せて欲しい。そして幸い、「材料」は自分の身の回りにある。それを手にとって曲げ、壊し、材料という物を理解することが望まれる。 

 私がこの本をネットに提供するのは、もう一つの意味がある。それは環境にしろ経済にしろ、現代は材料の知識が無い状態で判断できないことが多い。その一つがリサイクルだが、材料を知っていたらリサイクルしようなどとはまず考えない。実体をよく知っていること、それは知というものに根ざして生活する人間が基礎とすべきものだからである。