「可五感化」によるコンピューター・シミュレーションの試み
-材料に焦点を当てて-


はじめに

 コンピューター・シミュレーションは実験を越えられるか?という設問はコンピューター・シミュレーションの研究者にとって重いテーマである.コンピューター・シミュレーションは実現できないほどの高温でも,測定が不可能な程の高速の条件下の現象も計算することができる.

 また原子の一つ一つの動きや物理定数の意味を具体的に示すことも可能である.しかし,一方では多くのコンピューター・シミュレーションの研究者が感じているように,慎重に方程式をたて,充分な注意をもって近似して計算結果を得ても,それが真に自然界の現象を捉えているかという不安がつきまとう.特に工学の領域においては研究対象物はかなり複雑であることが多く,その全体像を正確に把握することは極めて困難であるからである.
 
 さらにこの様なコンピューター・シミュレーションに使用する数式や離散化方法などの数値計算上の技法に対する基本的な疑念と同時に,コンピューター・シミュレーションの研究者は実験担当者と同一の経験ができないという問題点が指摘されよう.

 すなわち,実験担当者は常に自然や自己の研究対象物と具体的に向き合い,それを正面に見て取り組んでいる.金属材料の研究者は材料を削り,成形し,観測する.それによって材料の本質を感覚的に知ることができる.それに対して例えば、コンピューター・シミュレーションの研究者は金属元素同士の間に働く力学的な力については良く知っているが,金属材料そのものを実験担当者ほどに知ることはできない.例え実習のような機会に恵まれたとしても,それを専門として取り組んでいる研究者ほどには感覚的に捉えられないのである.
 
 コンピューター・シミュレーションが実験を越えられるか?という設問には多くの視点からの議論が必要であるが,本論では人間の五感の作用を通じてコンピューター・シミュレーションが実験を越えうることができる可能性について論じた.


1 コンピューター・シミュレーションの典型的手法における論理矛盾

 コンピューター・シミュレーションの目的には,通常の科学的研究の目的と同様に,自然界における新しい発見を目指す場合の他に,実験では実施が困難な条件における自然界の現象の解明や,実験では著しく非能率な研究をより効率的に実施する手段として用いられる場合がある.

 また,現代のように自然界に無い多くの人工物が存在するときには,人工物の解析そのものにも使用される.例えば材料関係では自然界にはほとんど存在しない還元状態の金属材料や,特殊な触媒で合成される立体規則性高分子などである.これらの人工物の場合にその合成,解析などをコンピューター・シミュレーションで行った場合,近代自然科学のように自然を明らかにするという表現では適切でない場合もある.
 
 しかし対象物が自然界に存在する場合でも,また自然界に存在しない人工物の場合でも,現在の我々の宇宙を形成している物理的原理に従っている事は確かであり,広義には自然界に現象を明らかにしていると言える.自然界の摂理はすでに太古の昔から変化が無いわけであるから,科学的手法を用いて明らかにするということは現在の時点において人間がまだ解明していないことを明らかにする作業と言えよう.

 仮にコンピューター・シミュレーションを行うに当たって,①我々が用いる方程式などの数学的手段に誤りが無く,②境界条件などの考慮すべき補助的数式や条件設定が対象物を正しく反映し,かつ③離散化方法など数値計算手法も正しく行われたとすると,それで得られた結果は我々がコンピューター・シミュレーションを実施する以前の対象物に対する認識と一致することであろう.上記コンピューター・シミュレーション3条件が満たされることがコンピューター・シミュレーションの最善の経過(過程?)であるとするならば,コンピューター・シミュレーションで新規な自然科学的発見をなす可能性は極めて少ないといえる.

 対象物の物理的状態や変化を書き表す数式などがそれを記述する前の知見によるのであれば,その後の正しい手続きはその知見を補強するものであっても,その知見を否定するものにならないからである.従って,もし物理的知見に優れ,数学的手法をマスターし,ある出題に対して正確な答案を書くことのできる学生であれば,どの学生も同じ答えに到達するであろうからである.
 
 すなわち大学の教育のように対象物においてすでに判明している科学的事象を繰り返し示し,あるいは問題を解くのと何ら変わらない研究となる.もしコンピューター・シミュレーションの研究自体がそのような内容を持つのであれば,如何に表面的に複雑で,研究している本人しか理解できないような近似方法や離散化方法を採用したとしても,それは従来の自然科学の研究とは著しく異なる概念のものであることが指摘できる.
 
 すなわち,実験は常にこれまで考えてきたことが間違っていることを期待して行われるものであり,期待通りの結果を得ることが確実であるならば,それは一般的な概念からは研究とは言えず,単なる確認作業に他ならない.もちろん,この様な確認作業も企業活動や実務においては有益であるとしても,それをもってコンピューター・シミュレーションが実験を越えられるとは言えない.
 
 例えば,超電導現象の発見において,従来からの知見に基づく原子配置と電子の運動を考慮したら,どんなに正確にコンピューター・シミュレーションを行っても,全体温度4℃付近で抵抗が不連続にゼロになる結果を得ることができないと考えられるからである.
 
 コンピューター・シミュレーションの付随的な有用性について様々な擁護をすることは可能であるが,コンピューター・シミュレーションを厳しく見れば上記のような矛盾を内包していると言えよう.


2 可五感化によって克服できる範囲

 コンピューター・シミュレーションの領域において多く使用される方法に「可視化」がある.これはコンピューター・シミュレーションで得られた結果をより鮮明に示すために使用する手段であり,科学的工学的な目的からアニメなどの映像を作成する目的で用いられる.

 コンピューター・シミュレーションの結果は実験などで得られる結果よりデーター数が多いのが特徴で,計算出力結果を表にしてもその膨大なデーターを人間の頭脳で解析することが困難な場合が多い.そのために可視化が行われる.従って,一般的な可視化の目的はコンピューター・シミュレーションの「結果」を見やすくしたり,デモンストレーションするためである.しかし人間の認識という点から,コンピューター・シミュレーションの可視化を考えてみると,現在のように結果を表示する可視化とは異なる目的に応用することが望ましいと考えられる.
 
 多くの科学的発見,工学的着想が伝説的に伝わっている.例えばガリレオは土星の動きを観測して地動説をうち立てた,ニュートンはリンゴの実の落ちるのを見て万有引力を着想した,ダーウィンはガラパゴス諸島の動物の“動き”を見て進化論に気づいた,ライト兄弟は鳥の飛ぶのを見てヒコーキを作成した,等である.

 これらのような大発見大発明を例に挙げるまでもなく,我々の日常的な実験においても,測定器から直接的に得られる数値データーばかりでなく,金属組織の顕微鏡写真や,溶融体の流動状態,またものが焦げる時に発するパチパチした音や焦げる臭い,などから様々な知見を得,そして着想する.
 
 皮革製品が老化しているかどうかは,引張り強度のデーターよりも目で観測する皮革の光沢,肌で触って判別する皮革の柔軟性などでより精密に判断できる.それより,もし我々が皮革というものを一度も見たことも触ったこともなく,単にその材料の引張弾性率や曲げ弾性率,破壊靭性値,色彩などの一覧表を見て,皮革というものを正しく認識することはできない.
 
 これらのことから,我々の物体や自然に対する認識は数値で表現されたデーターによって理解され判断されるのではなく,我々の五感で物体や自然そのものを“つかみ”,その後数値的データーなどを補助的手段として理解を深めているに過ぎない.

 従って,コンピューター・シミュレーションにおいても結果として数値として得られるデーターはすでにその結果が予想できるものであり,そのコンピューター・シミュレーションを実施する前における概念を越えないものである範囲において理解できる性質を本来有していることが判るのである.
 
 コンピューター・シミュレーションが実験を越えるためにはコンピューター・シミュレーションを実施するときに我々が対象物に対して有している認識と異なる場合でも,それを正しく理解し概念をつかむ必要がある.そのためには,まずコンピューター・シミュレーションの結果を「可視化」すること,さらにそれに動きを付け「可動化」する事,さらに「可聴化」,「可臭化」「可味化」「可触化」などの手段が有効であることが判る.
 
 可視化以外の可動化,可聴化,可臭化,可味化,可触化などは,いずれも視覚の動的作用,聴覚,臭覚,味覚,触覚の五感を表現する述語からの造語であるが,可視化以外はまだ一般的に使用されていないので,表現に違和感があるが可視化と同様にコンピューター・シミュレーションの結果表示として不可欠なものである.また,これらを総合して「可五感化」ということにする.
 
 コンピューター・シミュレーションの結果をこのような可五感化された状態で表示することが可能になれば,コンピューター・シミュレーションの結果を可視化して表現することは結果を見やすくするためではなく,結果からある着想を得ることができるという点で,実験の価値により近づき,あるいはそれを量がすることが可能であろう.


3 可五感化の試みと結果の一部

 溶融材料の対流状態を示すコンピューター・シミュレーションの結果を可五感化する試みの一部を以下に示す.この計算は流体のナビエストークスの方程式を中心として,運動量保存,エネルギー保存,質量保存を表わす方程式を用いて,ブシネ近似を使い,離散化した状態で風上三次精度多方向差分法で解いたものである.

 その手順などは順次発表する計画であるが,本法では可五感化という概念を示すに必要な最小限の図を示す.対象物質は材料が下から急速暖められて内部に対流ができる状態を示したものである.

 またFigure 1は3次元で非平衡状態で材料が加熱されるときの状態を示し,これも可動化されているが,論文ではそれを示すことができない。さらにFigure 2は流体の中に加熱された金属立方体が動く状態を示したものであり,本来「音声」が付いているものであるが,論文では音声を張り付けることができない.発表では可五感化の内,可動化,可聴化を示した.

Figure 1 温度差のある2枚の板の間の流体の動き

     
Figure 2 熱物体が流体内を動く状態


4 認識論との関係

 人間は誕生して以降,成長過程において外界から様々な刺激を受けてその情報を脳に蓄積し,自ら情報の処理,判断などの行う論理体系を築いていく.その過程は基本的に生物としての人間という側面を多く持っており,自己防衛的に論理回路が形成されると考えられている.

 すなわち,生物としての人間は自己を保存するために外界の情報を処理するのであり,科学的真実性とか自己の無関係の事象についての判断は2次的なものとして取り扱われる.脳のこの様な生物としての論理的処理過程は,科学の研究や工学的作業とは異質である.従って,自然界の事象に対して相当経験を積んだ科学者や技術者であっても,基本的には自己防衛的に科学的事実を認識し,それを判断しようとすると考えられる.
 
 例えば,無意識のうちにそれまでの学会における自己の立場を擁護するように事実を観測してしまうという誤謬を生む可能性を含んでいるのである.
 
 これらの人間の脳の情報処理に関する誤謬は,それが科学的真実という意味では誤謬であっても,人間としての個人の判断では誤謬ではないと考えられるのである.研究者当人にとって学会における自己の立場を擁護するように事実が観測されたとしても,それは生物としての人間の正しい判断であって,決して誤謬ではない.従って,例えばそのような例が存在すると仮定すると,その事象に関しては科学的事実を明らかにすると言うこと自体が非人間的行為であるとできるのである.

 本論文では自然観測における倫理問題を取り扱うものではなく,この様な脳の認識において,限定的なデーターの図表による判断が五感から判断される人間の認識構造に対して比較的弱い影響しか与えないと考えられることを強調したいのである.

 すなわち,心理学,認識論などの人間科学領域,また脳の認識の自然科学的研究などによって我々の認識及び判断の構造が明らかになっているが,それでも脳の複雑な情報処理と判断に至る論理形成過程は不明な点が多く,特に自己的論理的に認識し,判断する過程以外に,周囲状況を無意識のうちに認識し,自己に有利に判断する割合が極めて大きいことが指摘されている.
 
 周囲からの情報判断についてのアフォーダンス理論,自己判断に対する周囲判断,明示的な知識に対する暗黙知などがその研究例であるが,これらの研究のいずれもが我々が顕在的に認識できる認識の範囲が狭いことを教えている.
 
 これらの最新の認識論をコンピューター・シミュレーションと実験の関係において考察すると,多くの実験,特に工学の進歩が著しかった今世紀半ばまでの工学の実験においては期せずして実験の対象となる機械や材料は目で観測ができるものであり,それを見た新鮮な感動が多くの発見,発明または改良が行われる原動力になった.

 最近,測定機器の発達,コンピューターの発達により実験によって感覚をつかむことが少なくなり,それが工学的進歩の停滞の原因の一つではないかとの議論もある.これに対してコンピューター・シミュレーションでは物質や製作物を取り扱わず,計算結果も貧弱なプリンターで数字が打ち出されるに過ぎなかった.
 
 現在でもコンピューター・シミュレーションの結果のビジュアリゼーションは技術者にとってそれほど簡単ではない.しかも,コンピューター・シミュレーションが特化して専門化したことにより,コンピューター・シミュレーションを取り扱う技術者と実験技術者が分離したことも実験との乖離を促進した要因となっている.
 
 人間の認識構造を考え,18世紀以来の実験を主体とした工学の発展過程をつぶさに参照して,コンピューター・シミュレーションは可五感化といういわば「当然の方法」をより多く取り入れる必要があろう.


終わり