大和撫子 そのよん   すべては女性に

1.  山の神

「山の神」とはもともとは、山をつかさどる神であるが、今ではそんな意味を知っているものも少なくなった。家庭ではコワイ妻を言う。英語でも山は"her"で、フランス語の"la montagne"も女性名詞である。

2.  家庭における収入の処分権

京都府女性政策課が二組の夫婦の財布の調査をしている。

一つめが、年齢43と45の夫婦。共稼ぎ、年収はほぼ同じである。子供は男の子2人。「自由になるお金は?」という女性政策課の質問に、
「夫:昼食代、たばこ代以外は、基本的に自由になるお金を持たない。欲しいものがあれば、その都度妻に相談し、合意の上で買い物する。
妻:特に決めていない。必要な時その都度、家計費から適当に使う。」
と解答している。

 このように夫と妻が年収が同じの場合、日本の男は自分の稼いだお金は妻へ、妻のお金は妻へという割り振りで納得している。

 二つめは、旦那がアメリカ人、妻、大和撫子。年齢は上と同じ、収入はほとんど旦那の稼ぎ。子どもは高校生女の子という家庭の例である。

「収入はすべて夫が管理。妻は毎日家計簿をつけ、1週間に1度夫のチェックを受ける。日々の買い物など家計費は1週間に1度、夫から必要分を渡されるが、妻は自由になるお金がないため、時折雑誌などのライターのアルバイトをして小遣いを捻出し、趣味や衣服代などに充てている。妻は不満だが、国による感覚の違いと諦めている。夫は、自分の労働の成果であるお金の使い道を管理するのは当然と考えている。」
と妻が答えている。

日本の感覚では、酷い夫という漢字であり、夫が家計簿のチェックすることなど考えられない。こんな状態は結婚生活と言えないが、この場合、妻は夫がアメリカ人だから我慢しているのだと思う。日本人の夫なら離婚するだろう。

ところで、日本の家庭で(1)家庭の収入がすべて夫、(2)妻は扶養家族 という条件の世帯で、財布をどちらが握っているかという調査を見ると、日本の男女関係というのが欧米とは全く違うことがよく分かる。



家庭の収入がすべて夫の場合では、妻が扶養家族であるが、その場合でも、実に100軒93軒が妻が財布を握っている。

日本にはもともと「扶養」というような単語は夫婦間で意味を持っていない。それを法律用語で無理矢理、ヨーロッパの用語を入れるから議論になる。「妻が扶養家族」とは、妻が扶養されているのではなく、「妻が夫を扶養家族にしている」ということをいう。それは上記の表がよく事実を示している。

ところで男女の間の日本の良き文化は財布だけではない。江戸の末期のこと、多くの青い目の旅行者が日本にきて、旅行記や手記を残しておる。その中に良く現れるのは道ばたで女が湯浴みをしている風景である。青い目も最初は驚き、品のない国と思ったらしい。しかし、暫くすると己を恥じるようになった。どうも日本の男は女が道ばたで湯浴みをしていても、そちらを見ない。

これは性欲というのが無いのかと思ったようだが夜は夜、吉原もある、子どももできる。それは他の民族とも同じである。そしてその内、青い目も日本の文化を知る事になった。それは、
「やってはいけないことはしない」
 日本文化の一つである。

 ところでその頃の絵を一つ示す。渡邊京二の「逝きし日の面影」から借用した。炉端で子どもとご婦人が湯浴みをしている。それを縁側の男が何気なく目を向けているが、女も子どもも平然とした物である。ちっとも緊張していない。女や子どもが湯浴みをする時には男はそれを見ようなどと下笥な事はこれっぽっちも考えない、「楽しくやっとるわい」という感じで、それが日本の建前の文化である。



 このように日本では、陰と陽、虚と実が交差している。日本の男女の関係は上下ではなく対等であった。最初から対等であり、無理に言えば役割が分担されていた。女が陰と虚、男が陽である。これを現代風に言えば、精神界が女、物質界が男と理解される。

 精神界とは、神代、宗教、呪術、日記、小説、恋愛、結婚、化粧、舞踊、音楽、財布などである。財布は実物ではあるが、その中に入っておる金はマボロシである。そして財布は金子を入れる袋にすぎないし、金は唯の紙切れにすぎない。お金はそれを使って初めて実になる。

日本で家庭の財布を女が握っているのは虚を担当するからで、そこにはお金しか入っていない。男は実を担当しているから、財布を持たずに鍬を持ち、奥さんからお小遣いをもらって酒を飲みに行くという分担になっている。

精神界を支配するのは得にならないと思われるかも知れないが、物質文明が終わり、これからは精神的な充実が大切である。だから精神界を牛耳っていた女性は有利なスタートが切れるはずである。

著者は、男女共同参画という運動は日本の女性の地位を下げると考えている。もともと男性より女性が優遇されているのは明らかで、その中で女性と男性を同じ役割にすることは女性に過度な負担を強いる可能性がある。日本のように男が女性を尊敬し、優遇している国の中に、ヨーロッパのように女を所有物と考える文化を持ち込むのには慎重でなければならない。

でも、この結論はあまりに細部の論理にこだわっていてやはり全体をみてないと思う。確かに日本の女性は優遇されている。それは確かであって、その事実を否定してかからない方がこれからの女性の権利を守っていく上で重要なことと思う。何事も自分の主張に不利なことはみて見ぬふりをしたいものだが、そうしているといつまでもけりがつかない。相手も「そんなこと言ったって」と心の中で思っているからである。

だから日本のあらかたの家庭では女性が財布を握っていること、特に最近では財布を握るばかりか、実質的に女性の方がお金を多く使うようになってきた。それに平均寿命も女性の方が8歳も長い。もし酷い虐待を受けていたら、寿命はそれほど長くないはずだからである。いや、実に女性はうらやまし。できれば私も8歳長く生きたい。


それほど女性が恵まれていてもやはり現代の日本は奇妙だ。どんな会議に出てもほとんど男性だけで会議をしている。今日の講演会には200人ほどの人が集まっていたがすべて男性だった。理屈っぽく、難しい講演会に女性の姿はほとんどない。この状態は間違いなく異常である。

つまり男性が家庭で家事をすると、髪結いの亭主だの、男のくせにと言われるなど散々であるように、女性が社会にでて働こうとすると、数々の障害が待っている。差別、体力、雇用、危険・・・それは数え切れないほどである。だから女性は社会で継続的に働く自由がない。女性が男性に互して社会で活躍しようとすると、無限の体力があり、無限の精神力を求められるからで、現実的にはそれは無理だからほとんどの女性は挫折する。

それは不当なことである。

この問題は次回に解析をするとして、第3回までで日本の女性が世界ではまれにみるほど恵まれていたこと、それはヨーロッパのように女性は男性の所有物などというのとは全く異なる状態だったことだけを強調し、それでも男女共同参画はもう少し違う角度で考えてみなければいけないことを示唆して今回のページを終わりたい。

つづく