― 日本社会は女児を魔の手から守ることができるか? ―
卑弥呼の時代、日本の男女には「役割分担」があった。女性が「陰、心と幻想」を担当し、男性が「陽、実務と現実」を受け持った。陰が上であるか陽が上位かなどは問題ではなかった。火事なら消防士が活躍し、泥棒を捕まえるのが警察であり、消防士と警察官とどちらが優れているかなどの質問は、聞く方がばからしい。
男女の役割分担は時代とともに変わっていった。卑弥呼の時代は心の時代であったから、宗教が大切で日常の行動は占いによった。だから女性がトップとなり、政治も日常生活もその行動は女性が決めた。そのうち、政治は少しずつ現実的になり、奈良時代には男性の天皇がほとんどになった。
それでも日本の女性は元気がよかった。世界で初めて女流の文学者、清少納言や紫式部が活躍したのも平安時代であり、世界ではフランスの女流作家アフラ・ベーンに先立つこと700年である。小説は「心と幻想」であるから女性の分野であり、男性は「日記、記録」に終始していた。
でも現代は違う。男女の役割分担は「悪」とされ、男女が同じことをする方が良いとされる時代になった。これも時代の流れであり、国民が決めることだからその是非は問いたくない。でもそれによって起こること、それによって悲惨な思いをする人・・・最近の女児のような人・・・を少しでも救いたい、それがこの文章の願いである。
連続して起こる女児殺害事件、その多くは単なる暴力の問題であり、表面では性的な問題は少ないが、事件を起こす男の深層に性的衝動が認められる。
また、事件の原因として「男女共同参画」の活動による副作用と考えられるところがあり、それを指摘したい。私は男女共同参画を推進するのに賛成であり、これは国民の希望でもある。でも「良いことだから欠点を指摘してはいけない」という最近の風潮は望ましくない。欠点を議論して事前に防ぎ、副作用を最小限に抑えることは大切なことである。
女児殺害事件と男女共同参画に次の2つの関係がある。
第一には男女が同じような行動をして、その役割分担が消滅すると、
「男は女に暴力をふるってはいけない。それは卑怯なことだ」
という戒律も消滅する。
男性には暴力衝動がある。この男性の暴力衝動は生物的・遺伝的なもので、簡単には無くならない。暴力衝動は、良い面では家族を守るための戦いや獲物を仕留める時、現代社会では格闘技系のスポーツや、たまには芸術的な創造性として発揮されてきた。悪い面では戦争を起こしたり、若者が暴力沙汰を起こしたり、さらには殺人に至ることもある。
殺人犯の一部には性染色体の内、男性のもつY遺伝子の数が多い人がいることが知られている。一般人の中でY遺伝子が2つある人の比率は0.1%であるのに対して、犯罪者の比率は2%とも言われている。つまりY遺伝子は男性が持っているものであるが、このことで男性であることが、暴力を呼ぶ要素を持っていると言われる根拠となっている。
ここで注意したいことは、染色体と犯罪率などの関係は民族や人を差別するために利用されてきた。だから今では禁句のようになっているが事実は事実として科学的に受け止めてもらいたい。
このように、男女の問題は、狩猟時代や原始的生活を営んでいる時に作られた進化論的、生物学的な特徴をどのようにして制御するかということを含んでいる。男女が平等であるとか、機会均等であるということは近代文明の考え方として正しいが、男女の体や性質は1万年以上前の生活で作られてきたことも同時に認めなければならない。
そして、社会が発展するにつれて男の暴力衝動をどのように抑制するかが問題になってきた。その一つの方法が、
「男が女に暴力を使うことは恥ずかしいことだ」
という道徳的観念を植え付けることだった。
女性は腕力が弱い。だから女性を相手に暴力をふるうことは男として恥ずかしいことだ、と小さい頃から教えるのである。
人間は頭にできる先入観や幻想にとらわれるので、小さい頃から女性へ暴力をふるうことは恥ずかしいことと教えられ、女の子をいじめると「やーい、お前、汚ねえな」と言われていれば、大きくなっても女性に暴力をふるうことにためらうようになる。
でも、このことは男女を均等に見ないことにもつながる。弱い性としての女性ということになると、それだけで女性蔑視につながる。しかし、事態は複雑である。「か弱い女性」なら「手を出さない」ということになるが、「自分と同じ女性」ということになると男同士が戦うように、戦って何故悪いと錯覚をする人が現れる。
難しい選択の問題である。現代の論調を見ると、過渡期に少しの被害者がでても「女性はか弱い」という状態を脱したいというのが多くの女性の望みと考えられる。
そして第二の環境変化は女性の性の解放である。
元々、性というのは動物的衝動に関係している。女性が美しく化粧をするのは、男性にとっても女性にとっても良いことで、単に男性に気に入られたいからだけではない。でも女性のお化粧が男性の性的衝動を高めるための行為の一つであることも確かである。
また女性が肌を見せることも男性の性の衝動を高めるとされている。イスラムの世界で女性が肌を出すのを禁じるのは敬虔な宗教的生活とそぐわない面があるからである。そして男性の性的衝動は暴力を伴うことが多い。
日本の社会は最近、女性の性的解放が進んでいる。電車の中の化粧、女学生の極端に短いスカート、夏のファッションとしてのタンクトップや下着ファッション、それに国際的に問題になるほどの日本の週刊誌のヌード写真・・・などいくらでもある。
女性が車中で化粧をするのは見苦しいが、法律で禁止するようなことではない。女学生が極端に短いスカートをはくのも、車中の雰囲気を下品にはするが「わいせつ物陳列罪」にはならないだろう。でも男性の性的衝動、暴力的衝動を高める結果となる。
最近、都会ではラッシュ時に女性専用車が増えてきたが、極端に短いスカートをはき、下着ルックで乗車すると痴漢が発生するから女性専用車が必要だと言うのはまともな議論ではない。男性の性的衝動は男性だけの問題ではなく女性と男性の間の問題だからである。
もちろん、相手の女性がどんな格好をしていても性的衝動を抑制するのが立派な男性のするべきことであるが、立派な男性としての行動を求めるなら女性の方も立派な女性としての節度ある格好が必要とされる。
性的衝動を受けた男性があらわな格好をしている女性を襲うとは限らない。大人の女性を襲うのはなかなか大変だから女児に刃が向かうことがある。
男女共同参画を進めていくには克服すべきいくつかの課題がある。男性にとって女性が「保護するべきもの」では無くなったとき、男性の持つ暴力衝動をどのように女性が考えて、女性側にもなんらかの制限を設ける必要がある。
私はその第一歩として、女性が自ら外に出るときの服装に注意し、ヌードでお金が稼げると思っても自重して欲しい。女性の権利を守ろうとしている中で、女性が肌をあらわにすると犠牲者がでる。「そんなの男の勝手よ!」というお叱りの声が聞こえるが、それでもあえて言いたい。少女の犠牲を止めたい。
女性を特別視しないで良い社会へ変わりつつある。それは大変に良いことで男性としても、多くの女性が伸び伸びと人生を送っているのを見ると楽しい。だからそれを守るためにも女性自らが公衆の面前で男性の性的衝動を高める格好をするのを謹んでもらいたい。特に男女共同参画を進めている女性の方と、高等学校の先生にお願いしたい。
おわり