マン島レース

第二話 -マン島制覇(制覇の原点)-

 谷口の入賞の5年前の3月20日,本田宗一郎がマン島TTレース参戦を宣言した.

「全従業員諸君
 本田技研の全力を結集して栄冠を勝ちとろう.本田技研の将来はかかって諸君の双肩にある.ほとばしる情熱を傾けて如何なる困苦にも耐え,緻密な作業研究に諸君自らの道を貫徹して欲しい.(中略)

 ビス1本締めるに払う細心の注意力,紙1枚無駄にせぬ心がけこそ,諸君の道を開き,吾が本田技研の道を切り拓くものである.(中略)

 日本の機械工業の眞価を問い,これを全世界に誇示するまでにしなければならない.吾が本田技研の使命は日本産業の啓蒙にある.

 ここに私の決意を披露し,T・Tレースに出場,優勝するために,精魂を傾けて創意工夫に努力することを諸君と共に誓う.
 右,宣言する.
昭和二十九年三月二十日
 本田技研工業株式会社 社長 本田宗一郎」
(「定本 本田宗一郎伝」,中部 博著,三樹書房から)

 激烈な宣言文である.日本海海戦やマレー沖海戦とは違い、マン島レースは戦争ではないけれど,貧弱な当時の日本の製造業にとってはヨーロッパでのレースの参加はまさに戦いだった。それをこの檄文から感じ取ることができる。

 ヨーロッパはオートバイに対して特別な思い入れがあるが、日本もオートバイの歴史という点ではそれほどヨーロッパにひけをとってはいない.日本の第1号は1908年だから,世界初のドイツに遅れること14年に過ぎないし、島津楢蔵が作ったNS号は,自転車に4サイクル単気筒400ccのエンジンを取りつけたもので,写真も残っている。


島津楢蔵作:NS号

外形はそれほど素晴らしいとはいえないが、キャブレーターもスパーク・プラグもすべて楢蔵が手作りで製作したもので、吸気バルブは吸気負圧で自動開閉する自動弁,排気バルブは機械駆動によるバルブ機構という精巧なものである。制作された時期は明治であり、日本の「ものづくり」の技を感じる。.

そして数年後には,NMC,サンライズ,オリンピア,宮田製作所などのメーカーが出現し,自転車で名を馳せた宮田は2サイクル・出力3.5馬力のエンジンを載せて「アサヒ」号を作り,第1号車は警視庁に納車された.この歴史的オートバイは総理大臣だった大隈重信公の護衛に使われた.

このように日本のメーカーも頑張ってはいたが,オートバイはやはり輸入が主力だった.イギリスのダグラス,トライアンフ,BSA,ドイツのNSU,アメリカのインディアン,ハーレー・ダビットソン,ドイツからNSUやBMW,ツュンタップなど・・・いずれも歴々たるものだった。高級な部材を贅沢に使って仕上げた外車は市民には高値の花でもあった。

 明治,大正,昭和と過ぎて太平洋戦争の前の頃になると,島津が633ccの4サイクルでサイド・バルブ方式のエンジンを積んだエーロ・ファースト号が鹿児島~東京間を走り,日本モータース製作所のエーロ・ファースト号は3年間で700台も生産するようになる.

陸軍も国産オートバイの試作車を使い始めるが,やはり中心は欧米車で、ハーレー・ダビットソンが国産化して,のちの「陸王」となるのもこのころである。ハーレーはこのころから1200ccV型ツイン・エンジンで28馬力,時速97キロである国産とはまだ差があった.

 それからすぐ日本は太平洋戦争に突入して、やがて戦後になる。

戦後になると,もっぱら戦闘機を作っていた連中がオートバイ作りに専念したので、日本のオートバイ技術は急速に進展した。特に元の中島飛行機の技術者たちが富士産業を設立して造った空冷4サイクル単気筒135ccのスクーター「ラビット」は出色であり、「ラビット」は猛烈なヒット商品になり,スクーターといえばラビットとなった.

庶民はスクーターが軽快に街の道路を走り抜けるのを見て,「ラビットだ,ラビットだっ!」と叫んだものだったが、私もラビットのスマートな走りを覚えている。

 ところで「本田技研工業」の第1号車はホンダA型という2サイクル単気筒50ccエンジンの原動機付自転車である。ひところ、4サイクルと言えばホンダ,2サイクルはヤマハと言われたものだが,ホンダの第1号は2サイクルだった.


ホンダ第1号.バタバタの異名で親しまれたホンダA型(1947)

 この第1号を見て「ものづくり」の原点を感じる。自転車とエンジンが手に入り,少しばかりの機械加工の力があれば新型オートバイが作り出せる良き時代だった。それでも戦後の日本人はお金が無く、貧乏だった.サラリーマンの初任給が1万円の時代で,かけそばは1杯30円.その時代にホンダのドリーム号は18万円だから、今の値段に直せばオートバイは1台360万円という計算になる。

 日本でオートバイが庶民の手に届くようになったのは,マン島TTレースをホンダが制圧したあと、日本が高度成長の時期を過ぎてからである。レースへの参加でエンジンの性能は高くなり、1960年代にはホンダのカブ・レーシングCR110が50ccという小さなDOHCエンジンで最高出力7馬力を出すようになった.リットル当たり140馬力が出た。

250ccを超える大型のバイクではホンダが43馬力のCB450,カワサキが650W1,そしてスズキがT500と2気筒の素晴らしいエンジンを載せたオートバイがぞくぞく出て,大型オートバイの世界もヨーロッパやアメリカへ、そして日本に変わって行った.

カワサキは空冷2サイクル3気筒500cc,60馬力のエンジンを積んだ“500SSマッハⅢ”を発売した。最高速度は200キロを超え,その豪快さはオートバイ乗りにはこらえられないものだった。「ナナハン(750cc)ブーム」が起きたがこのカワサキのマッハⅢがその始まりであった。

カワサキというメーカーはホンダ,ヤマハの後ろに隠れて地味な存在であるが、良い作品が多いメーカーで、たとえば,カワサキの“Z1”.これは空冷4サイクルDOHC4気筒900ccで,速い上に乗車の感覚も抜群で,世界中から“King of Kings”と言われた傑作だった。

スズキのGS400も評判の良い車で、2サイクルのスズキにしては珍しい空冷4サイクルDOHC4気筒で、エンジンの性能も良いし、サスペンションも素晴らしいバイクである。難点とは言えないが、オートバイは単気筒のエンジンが座席に伝わる感覚が何とも言えない所もあるので、4気筒になると振動がなめらかでオートバイとしては物足りないと感じるライダーもいる。.


カワサキZ1“King of Kings”KAWASAKI~http://www.z750rs.com/

 このように日本のオートバイの歴史は嚇々たるものである.メカは世界を席巻しレースも制覇したが,高度成長のあと、所得が上昇すると、屋根が欲しい、冬は寒い.座席は冷たい.ラジオは聴けない.高速道路の料金所では通行料を出すのにも難儀だ、おまけに長距離ドライブではお尻は痛いし,掌はさらに痛い.経験したライダーはよく知っているが、痛くて痛くてハンドルを握れないほどになる。

 そんな辛さもあるがあの振動、ジャンパーを切る激しい風・・・大空の中に溶けこんで,自然の中で遊ぶオートバイの快適さは何とも言えぬものでもある。

 マン島TTレースで日本のオートバイがあっという間に制覇した理由は複数だろう。本多宗一郎という人物の存在、日本のものづくりの歴史、そしてメカが好きなライダーたち・・・もう少し、このマン島制覇について整理を進めてみることにする。

(この章おわり)