マレー沖の奇跡

第二話 -ワンショットライター-

 マレー沖海戦の解析をする前に、人間としては山本五十六、ハードとしては当時の航空機を簡単にでも触れておく必要がある。

 マレー沖海戦の勝敗は、その戦における技量や運だけではなく、その背景となるさまざまなことが関係しているからである。

 長官と命を共にした一式陸攻は次のような仕様をもっていた・・・日本海軍の花形攻撃機。乗員8名、全長19.97m、全幅24.88m、エンジン:三菱火星11型空冷複列星型14気筒1530馬力×2基、最大速度420km、航続距離4200km,20mm機銃×1、7.7mm機銃×4、91式魚雷1本または爆弾1屯。主翼内部を燃料タンクとして活用したので二発ながら四発爆撃機なみの航続距離を持ち、流線形の機体構造で420km/hの最大速度を有す・・・

 ところで紛らわしいが、海軍の陸上攻撃機とは「陸上」を「攻撃」するのではない。「陸上」から渡洋攻撃で海上の敵を「攻撃」する目的をもっている。

それまで海軍が陸上の基地から海上の敵を攻撃することはなかったが、1930年にロンドン軍縮会議というのがあり、海軍力はアメリカ:イギリス:日本=10:10:6と決まった。これを日本では「不平等な軍縮条約」と言っていた。

この条約は、最初は艦船の排水量だけが制限されようとしていたが、結局、空母兵力も6割に押さえこまれて、海軍は困った。もし、米英を敵として戦争すると、6割では戦争はできない。かならず負ける。

そこで、海軍は陸上基地の航空隊というのに着目した。「陸上」は「海上」ではない。なんなら「海軍」という呼び名を「陸軍」とすればよいし、「航空隊」でも良い。ともかく海上ではないからロンドンの軍縮条約とは無関係だ。

しかし、陸上から遙か海上の戦場へ向かうのだから超長距離航続は絶対条件で、それが大きな問題だった。条約は回避できるが、技術的課題は残る。

 しかし当時の日本は元気があった。イギリスはかつて七つの海を支配し、18世紀から19世紀に掛けて鉄鋼生産の世界一の国。そしてアメリカも20世紀前半に大国になっていた。それと対等に戦っても勝とうという気迫が日本には残っていた。


 攻撃中の一式陸攻
(写真と絵の両方で真実に迫ることができる。尾翼のマークK-310は鹿屋海軍航空隊分隊長
 壱岐大尉搭乗機(昭和16年12月インドシナ、ツドモウ基地所属)。
もし仮に壱岐大尉が戦後に生まれて会社に入ったら、
大企業の課長となり居酒屋で一杯やっているかも知れない。彼は日本の為に戦った。)

 一式陸攻は1940年に11型というのができた。でも、攻撃機としては欠点の多い航空機だった。航続距離を長くしようとして翼に燃料を積んだアイディアは優れていたが、戦闘機の機銃が翼に当たると火を噴く。

そこで、アメリカ軍がこれを「ワンショットライター」と呼んだ。日本軍が零戦などで制空権を完全に抑えているときには敵の戦闘機が来ないから良いが、互角の戦いになったらひとたまりもない。
 山本五十六も一式陸攻のこの欠点をつかれて撃墜された。長官だから仕方がないだろうと思う。一式陸攻の採用には彼が認可をおろしておるからだ。

 だが、このワンショット・ライター、血筋はしっかりしている。一式陸攻の父は「九六陸攻」といい、一式陸攻より6年前にできた傑作機である。

エンジンの馬力は910馬力と小さく、それを2基もっていた。九六陸攻が当時の世界をビックリさせたのはその航続距離で実に4,000キロだった。


 昭和11年夏に撮影された九六式陸攻。
二つの垂直尾翼をもったスマートな機体で「魚雷型攻撃機」と呼ばれた。

 

 一式陸攻がなんとなく評判が悪いままで終わったことに対して、九六陸攻は最初から調子が良かった。一号機ができた翌年には木更津と鹿屋の航空隊が荒天を突いての渡洋爆撃に成功した。

さらに有名なのは九六陸攻を民間機に改造した「ニッポン号」が1939年の6月から10月にかけて世界一周飛行に成功したのだ。尾純利機長ら6人の乗員が操縦して太平洋を渡りアラスカ、シアトルを経由してニューヨークに着いた。

そこでドイツ軍が電撃的にポーランドに侵攻したというニュースを聞き、つづいてブエノスアイレス、ダカール、ローマと南方コースを選んで羽田に帰ってきた。総飛行距離52,860キロメートル、飛行時間194時間という壮大な冒険であったし、時代が時代だったので、この快挙が日本を勇気づけたのだった。

 日本には零戦という素晴らしい戦闘機が生まれ、パイロットでは坂井三郎という世界でも希な圧倒的な「撃墜王」がいる。戦時なのでオリンピックのような金メダルは授与されないが、さしずめ、ゼロ戦にのった坂井三郎はオリンピックで金メダルを5つも取るような状態だった。

 ともかく、日本海軍は船舶数が少ない。航空機も十分ではない。でも山本五十六や当時、技術力が充実していた三菱重工の技術者の努力で、世界でもトップレベルの航空戦闘能力を有していた。

 なお、第二次世界大戦の前には航空機は戦闘の補助的な役割を果たすだけだったので、日本軍にも空軍は無かった。海軍航空隊がマレー沖海戦では活躍することになる。

第14回 終わり