マレー沖の奇跡

第1話 -山本五十六のふるさと-

 今回は常勝ニッポンの内、日本海海戦と並び称される世界的勝利であるマレー沖海戦を取り上げる。この戦闘は日本ではハワイ・パールハーバー奇襲が同じ時期だったこともあって、それほど注目されていないが、世界的には驚くべき事件だった。

 このマレー沖海戦の解説を刷る前に、人物について今回、そして爆撃機について次回に取り上げて準備を行った。

 新潟・長岡には魂を持った人材が多い。アナウンサーでは桜井良子、最近では「櫻井よしこ」という名前に変えているらしいが、長岡東中学校卒。NHKの桜井洋子というアナウンサーもまた新潟らしい。

男女共同参画の時代だから、女性から先に紹介したが、もちろん有名なところでは、上杉謙信(長尾影虎)、上杉景勝、直江兼続、上杉鷹山、河合継之助、山本帯刀、小林虎三郎、山本五十六、小野塚喜平次、田中角栄などズラッといる。

 長岡の人材は豊富だが、なんとなく運が悪い印象もある。

 上杉といえば名門、長い歴史を持つ大大名である。ところが、豊臣の時代には、上杉謙信ゆかりの地である長岡から豊臣秀吉に疎んじられて120万石で会津に移封された。その時の殿様が上杉景勝であったが、景勝も指揮官としては有能だった。

さらに今度は豊臣方と徳川方の戦いとなった関ヶ原の合戦では、疎んじられた豊臣側について敗北し、ついに米沢30万石に減俸、地方の小大名になった。

それから上杉家の苦難の歴史が続く。なにしろ巨大な大名だった上杉が、まず会津に120万石で移封、さらに30万石に厳封されたのである。お家の禄高が小さくなっても家臣の数が急激に減るわけでもなく、生活もそれほど急には縮小できない。

西の毛利、東の上杉はともに名家ながら徳川のはじめに30万石レベルに厳封されている。そのような苦しい藩の経営の中で、上杉中興の祖、名君・上杉鷹山がでた。かれは有名な次の句を残している。

・・・成せばなる
成さねばならぬ何事も
成らぬは人のなさぬなりけり
(上杉鷹山)

     
上杉鷹山                     山本帯刀

 長岡と会津の因縁は深い。

豊臣の時代に会津に移封された上杉、徳川幕府によってさらに米沢に追いやられた上杉は、幕府の死の時に再び苦難に襲われる。その点では幕末に徳川に対する恨みを返した長州、萩の毛利よりさらに運が悪い。

1868年、長州、萩の出身の山県有朋率いる官軍が長岡を攻め、それを家老河合継之助と山本帯刀が防ぐ。しかし、新潟勢の形勢利あらず、河合継之助は負傷し、支えきれない山本帯刀は長岡の軍勢を引き連れて会津に撤退した。

さらに会津の地で武運つたなく継之助が死去すると、続いて帯刀も捕らえられて斬首となっている。

継之助、享年42,そして名将の誉れ高かった帯刀は若干24歳であった。それから2年後、家老小林虎三郎が財政の苦しさに「米百俵」の故事を作り、130年後に首相・小泉純一郎がそれを使った。

今回、取り上げるマレー沖海戦を成功させた立役者は日本海軍・連合艦隊司令長官・山本五十六であったが、この山本五十六は帯刀の死で断絶した名家山本を継いだ人物である。名家であった山本家が消滅するにはあまりに残念ということで家名を守るために五十六が養子として行ったのである。

山本五十六は若い頃、このシリーズで解説を行った日本海海戦で連合艦隊の第一戦隊旗艦「日進」に少尉候補・艦長付きで乗船していた。その時、自艦砲台の爆発事故で被弾し左手人差し指と中指を失っている。山本の他にも、太平洋戦争の海軍幹部の中には山本五十六のように日本海海戦の経験者も多く残っていた。

因縁は深い・・・五十六は、その後順調に出世して、空母「赤城」艦長、海軍軍令部などを経て1940年海軍大将、そして翌年連合艦隊司令長官となり、日本海軍の運命を決する立場になった。

 長岡は不思議な土地で、日本の歴史に「影」というものがあれば、新潟県長岡の歴史は影の歴史、影の縮図のように感じられる。山本周五郎の「樅の木は残った」は仙台・伊達藩の原田甲斐を主人公とした小説である。その中で、家老・原田甲斐の家が断絶し、子息達は死罪となり、その代わり、伊達藩62万石という樅の木は残った。

日本が常勝なら、長岡というところは「常勝で、必敗」という運命を背負っているようだ。長尾影虎、上杉景勝、兼続、継之助、帯刀、五十六、そして田中角栄に至るまで、皆、傑物で日本を救い、そして日本という樅を残すために無念の最後を遂げている。

 ところで、連合艦隊司令長官・山本五十六が長岡の宿命を背負って撃墜された時、太平洋で死闘を繰り返していた日本とアメリカの戦争は勝敗の分水嶺に差し掛かっていた。

それは、昭和18年2月7日、太平洋戦争の天王山、ガダルカナルの激戦が日本軍の敗北で終わった直後で、ガダルカナル島では派遣日本軍守備隊3万1358名のうち、かの地を離れることができたのは1万665名にすぎなかった。このことは常勝ニッポンの謎を解くうえで特に大切な歴史的事件であるが、同時に、この南東の小島で鬼界に入った日本同胞“20693”と言う数字を日本人は忘れてはならないだろう。

 ともかく、ガダルカナル戦で展開された消耗戦・物量戦のあと、日本海軍は「い」号作戦を展開、第三艦隊の空母艦載機をラバウル周辺に展開、ソロモン、ニューギニアのアメリカ軍基地に攻撃を加えた。

戦争の行方を決めるこの重要な作戦に連合艦隊司令長官山本五十六も航空隊の集結に合わせてラバウルに進出、4月18日朝6時、前線の兵を激励するために一式陸攻G4M1でブヨン基地に向かった。

護衛は零式戦闘機6機。ブヨン到着直前という時、アメリカ空軍P38ライトニング16機の邀撃にあって交戦、戦闘中に司令長官機はブーベンビル島のジャングルに墜落し搭乗員、全員が死亡した。

      

            長官機一式陸攻の破壊された翼             長官座席

攻撃したアメリカ軍のP38は2月に日本から奪取したガダルカナルのヘンダーソン飛行場からレーダーを避けて低空で迂回して飛んできた。これに対して、我が方のレーダーはまだ配備されていなかった。

戦闘は、P38が長官機を発見し、直ちに急上昇、そのまま下方から一式陸攻に対して攻撃を開始した。もともと空中戦で下からの攻撃は不利であるが、山本五十六の乗っていた「一式陸攻」というのは航続距離を長くするなどの要請から防御力がゼロに近い爆撃機だったので、たちまち銃撃を浴びて墜落した。

山本五十六長官も背中から心臓への盲管銃創と下あごからこめかみへの貫通銃創を受け、座席にまっすぐに座り軍刀を握ったまま絶命していた。

第二次世界大戦の戦史ではよく知られているように長官がブヨンに向かうという暗号電報をアメリカ軍が解読したことが連合艦隊司令長官を失うことになったのだが、日本軍の無線が傍受されているということはすでに日本軍も知っていたので、山本五十六が撃墜される半月前の4月1日に暗号書を新しく変え、何とか傍受を防ごうとしたが、それも実らなかった。

ちなみに、長官機を撃墜したP38のパイロットはトーマス・ランフィアであったが、彼の弟はその年の9月、ブーゲンビル島の“まったく同じ場所”・・・つまり兄のトーマスが日本の連合艦隊司令長官機を打ち落とすという戦勲を挙げたその場所で、日本軍によって撃墜されて戦死している。偶然とは言え、ある種の因縁を感じる。

 長岡出身で日本海海戦で初陣を飾り、連合艦隊司令長官としてマレー沖海戦を指揮し、そしてブーゲンビル島に散った山本五十六の陰が、常勝ニッポンの光と陰を象徴している。

第13回 おわり