明治維新

第二話 -スームビング号の江戸回航-

 さて、明治維新には日本人のさまざまな特性が表面化する。歴史の転換点というものはそう言うもので、多くの英傑がでるが、その英傑ももし天下太平の時には平凡な人としてその人生を終わるのである。動乱は常に悲惨な部分を含むが、また同時に人間が光る時でもある。

1.  スームビング号の江戸回航

1857年4月、幕府が膝元の江戸にも海軍教育機関を設置するのが決まり、すでに日本名で観光丸と命名されていたスヌービング号が江戸表へ回航される。


(元祖 観光丸。1852年にアムステルダムの国立造船所で建造,
全長66m・排水量730トン・出力150hpの蒸気外輪船)

永井玄蕃頭を艦長として103名の伝習生が乗組み、日本人が単独で洋式軍艦を操舵して、江戸に回航するというのだから、実にこの命令は無謀だった。

初めて蒸気機関で動き、鉄で作られた「黒船」に驚嘆してから4年、伝習所ができて急ごしらえの教練が始まってから2年目。永井玄蕃頭と伝習所学生だけで、オランダ人の一切の手助けを受けることなく回航しようと言うのである。

そもそも、人間の心というものはその人物の生活の中で形成され、周囲環境を信じて生きているものである。それゆえ「黒船」というお化けのような物体は遠巻きにして見るのがせいぜいであり、乗船するのはもちろん、近づくことすら忌避するのが妥当である。

しかし、日本人は怯まなかったのである。細面でやさしい顔つきをしている永井玄蕃頭を始め、伝習所学生は平然と将軍の命に従って、異国の黒船スヌービング号に乗り組み、その回航を成功させたのである。

幕府が長崎伝習所から黒船の回航を命じた直接的な理由は、江戸に教授所を作ろうということだったが、本当のところは長崎という幕府から遠くの地で強大な軍事力が作られていくことに幕府としての問題があった。

この政治的背景はまた別の機会に論じることとして、このシリーズではニッポンの秘密を探ろうとしているので、なぜ、上下を着て頭をそり上げ、刀を差している日本人が、鉄でできて蒸気機関で動く黒船を忽ちのうちに自分のものにしたかということに関心を持ちたい。

これまでの歴史はとかく政治的な動きに注目しがちである。しかし歴史は政治で動いていない。むしろ物流とか技術、人の心などが支配的でその結果が政治としての動きになっている。

これを私の専門の材料という学問から言うと、昔は、材料の強度や見かけでその材料がどのように変化したかを調べていた。しかし、それは材料の中で起こっている組織の変化の結果であり、原因と結果を厳しく問えば、強度や表面観察などでは明確にならない。

歴史を政治的な動きで解析するのは、やはり見かけ上の変化を重視することにならないだろうか?

その意味でここでは日本海軍の教育のその後について若干ながら触れておきたい。

江戸の学校は明治になって「兵学寮」にかわり、生徒は金釦一行の短上衣を着用するようになった。海軍省になってから、幼年生徒は予科生徒,壮年生徒は本科生徒となり、後の予科練へとつながる。

カッテンディーケ卿が長崎海軍伝習所の生徒がみな年配であり、若年生徒を入れるように説得した時には功を奏さなかったが、それも明治になって実現したのである。しかし、制度は欧州のそれに改革されていったのだが、日本人の中にはまだ「志士、壮士」という独特の蛮風は残っていた。

兵学寮に貼られた「生徒に告ぐ自今庭園内に小便するを禁ず」という禁令はそのことを如実に示しているし、記録によると教官室で教官と格闘する生徒もいたという。

その点で、イギリス国からア一チボールド・ルシアス・ダグラス海軍少佐が士官,下士官、それに水兵を随行して兵学寮に着任し、
「士官である前にまず紳士であれ」
というイギリス国海軍士官の紳士教育、英語と数学の学業を課したのは、その後、日本海軍の初級士官養成教育が成功した大きな要因であった。

2.  明治と常勝ニッポン寸評

 常勝ニッポンを解析するには、スーヌビング号とそれに関わる一件を明らかにするだけでは到底、不十分である。しかし、永井玄蕃頭や勝海舟が長崎海軍伝習所でオランダ教官から航海術を習い始めたときの状況は常勝ニッポンを解析する一つのエポックであることは間違いない。当時の世界の情勢について若干考察する。

16世紀に始まった欧州の大航海時代は欧州列強がアジア・アフリカ諸国を制圧することで進み、19世紀初頭には有色人種の国で独立を保っているのは、エチオピア、タイ、清(中国)そして日本の4カ国となっていた。

これらの諸国のうち、エチオピアはアビシニア高原の風土病の地として畏れられ、もともと欧州諸国は侵略の意図を喪失していたし、タイ(シャム)はバンコク朝が成立しイギリス国とフランス国のアジア支配の緩衝地帯として独立国の面目を保っている状態であった。

さらに、清はすでにイギリス国や他のヨーロッパ諸国の餌食となり下がり、事実上、独立国とは言えない状態だった。実に世界の有色人種の国でその国民が統治しているのは日本が唯一だったのである。


(大航海時代のヴァルトゼーミュラーの世界図.コロンブスのアメリカ大陸発見の直後に作られた(1507))

 近代ヨーロッパで花開いた学問と工学がこのような結果を読んだことを学者としての私は深く恥じ入る。学問はそれを発達させた人だけではなく、そうではない人にも恩恵を与えられないものだろうか?

 しかし、ヨーロッパ諸国の名誉の為に若干の事情を整理すると、ヨーロッパ諸国による世界制覇もそれほど容易に進んだわけではない。大航海時代の「航海」は航海術が進歩した時代のものとは全く違っていた。その好例がマルコ・ポーロが中国の泉州から1290年にイタリアに帰還する際、14隻に600人が乗り込んで出帆し、哀れイタリアに到着した3年後には18人であったことからも判る。悲惨なる航海は数知れず、その屍と、蒸気機関が彼らに次の力を与えたのであるが、それには屍が必要だった。

また、スヌービング号の江戸回航では、何でも幕府のお達しを待たなければならなかった時代に、永井玄蕃頭が独断専行でオランダに製鉄所の建設機械を発注したことなど時代の中の日本人の気質も感じられる。

アジア諸国があれほど容易にヨーロッパ諸国の荒波に耐えられなかった一つの原因は、自国の宮廷内の争いに明け暮れ国を思う忠臣がいなかったこともあろう。フィリピン、インドネシア、インドシナ、ビルマなどの東南アジアの国々は、それぞれ王朝を持ち、政府や軍隊も存在したのであるが、とてもイギリスやオランダの効率的な攻撃に耐えられなかった。支配階級は自らの利権と国益を交換し、右往左往のまま内部崩壊したのである。

 アヘン戦争の前後の中国をつぶさに見ると、中国にはかなり前から「洋務運動」というのがあり、「中体西用」、つまり「中国の儒学に基づく制度や伝統を守りつつ、西洋の科学や技術を採用する」という命令が皇帝から出されていた。これは中華思想に基づいたもので「西洋は火砲・軍艦では中国にまさるが、政治・社会の制度では遠く中国に及ばない。夷狄の長所を採って中国の短所を補えば自強は達成できる」とされていたのである。

ところが事実は、清国が遅れていたのは技術ばかりではなく、政治・社会体制も大変、遅れていたのである。資本主義が勃興する前後のヨーロッパはすでに封建性を抜け、活動すれば報いられるという概念が行き渡っていた。それと活動しても報われないのとは一人一人の心の中の動きが違う。

日本にも「和魂洋才」という言葉がある。同じく漢字の文化をもつ中国と日本の四語熟語を比較すると、その後のこの二つの国の運命の差が明確にでている。社会は「人民の心、社会のシステム、技術」があるが、中国は「技術」を洋に求め、「心とシステム」は我が物に固執した。日本は「システムと技術」を取り入れ、「心」だけは守るとした。たとえば、中国人が「弁髪」に拘り、日本人が明治に入るとまもなく「ザンギリ頭」にしたことによっても判る。

 しかし、アジア諸国と日本の決定的な差は科学に対する取り組みにあった。

江戸幕府末期には開成所を中心に基礎科学の重要性が認識されていた。たとえば、竹原平次郎は「化学入門」を訳し、大阪開成学校でリッテルの口述した「理化日記」をまとめ、大阪開成学校でオランダ人ハラマタの口授した「金銀成分」が出版されるという状態である。

このほか、石黒忠直が「化学訓蒙」の訳を出帆するなど、日本人の知識欲の旺盛さについて深い敬意を表さなければならない。多くの日本人は、杉田玄白の「解体新書」を知っているが、松山棟庵の「窒扶新論」、大阪医学校発行のバウドインの口述書である「日講記聞」、海軍病院刊行の「講延筆記」も医学書であり、活動は活発だった。

理学、医学と異なり、数学、つまり和算は著しい特異性を持っている。理学や医学においてはその総てを欧米書籍の直訳だったのだが、数学は江戸幕府時代にすでに固有にものを持っていた。即ち「読み書きそろばん」といわれる商算、和算が学問として成立していた。

「塵劫記」はヨーロッパにもひけをとらぬ算術の名著であり、「洋算発微」も洋書系の数学書物として敬意を表さなければならない。スヌービング号の勉強で和算の専門家である小野友五郎が西洋数学の修得が早かったのは充分、頷ける。

工業技術は細々と電信、鉄道、造船、造幣の輸入が進み、明治のはじめには「機械事始」が出版されている。この書物にも蒸気機関についての解説が載せられているが、これが日本における最初の蒸気機関につながる。

1851年、この年は長崎海軍伝習所ができる実に4年も前のことであるが、日本人はフェルダム教授の執筆になる蒸気機関の解説書を独力で読み、実に12馬力の蒸気機関を日本人だけで製作した。この蒸気機関はシリンダーや弁に漏洩があり、現実には2馬力ほどしか出なかったが、簡単な図面だけを頼りに蒸気機関を作り上げる非凡な才能に驚嘆せざるをえない。

さらに日本人の特異な特徴がある。

日本人がアジア諸国と異なるもっとも大きな点は「書物が日本語に翻訳された」ということである。ヨーロッパで発展した学問を自国に取り入れる際、ほとんどの国はドイツ語、フランス語、オランダ語、そして英語の原著を用いるのが普通だった。

しかし、日本だけは違った。古くは仏典を日本語に訳して理解したように、ヨーロッパの書籍も日本語に翻訳したのである。この理由として、日本人が特別に外国語の修練が不得意なのか、あるいは、厳しく見える階級制が他の国のものとは格段に異なるのか、のどちらかと考えられる。

これを長崎海軍伝習所の勉強の様子から推察すると、特に語学が問題であったのではなく、むしろ、カッテンディーケ卿が榎本武揚の行状を描写した文、「江戸において重い役割を演じているような家柄の人が、二年来、一介の火夫、鍛冶工および機関部員としてとして働いている」という卿の驚愕が答えを出していると考えられる。

 日本人が厳しい階級が源にありながら、その本質において階級概念を持たないことは驚くべきほどである。江戸幕府には将軍、大名、士農工商の区別があったが、どうも「臨時の役職」に過ぎぬようにも感じられる。太閤秀吉は、百姓からスタートし、木下藤吉郎という下っ端武士、そして位人臣を極め、太閤となる。

秀吉が太閤になると、皆、こぞって太閤の威光にひれ伏すが、それは見かけだけに過ぎない。ひれ伏しているのは「浮き世の泡沫(うたかた)」である。太閤様はなにも自分たちとは違わぬと思っている。そして、それは秀吉の出生がたまたま卑しいからではなく、その父親も大名であっても同じという感覚が強い。権威を軽視しているのである。

前にも述べたが、大名が街道を練り歩く風景には、仰々しい仕立ての行列と街道の両側に這い蹲る百姓が欠かせない。この有様をみて、外国から日本に来る者は等しく、厳しい階級制が厳に存在すると錯覚するし、それは妥当である。実はそうではない。土下座している百姓は単に「行列が行きすぎる」のを土下座して待っているだけで大名に何らの偉さも感じていないのである。「ここは頭を下げておくか」というのが日本人の感覚らしい。

 好奇心、こだわらない性質、真面目さ、してはいけないことをしない、非階級制・・・常勝ニッポンを解く鍵がこの時代に多く見つかる。次回はそれをヨーロッパ人の目で見てみたいと思う。

第6回 終わり