-北の宿から-

 かつて、日本人の大晦日は決まっていた。朝から家族総出で家の大掃除をする。自分の部屋から初めて居間に至り、ガラスを拭き玄関先から路地を掃く頃になると、夕闇が迫ってくる。

 お供えを用意し、小さな門松を立てて夕ご飯時には家族が炬燵(こたつ)に入れるようになれば成功である。順番にお風呂をいただいてミカンを食べ、昼頃からおせち料理作りに余念が無かった母が少しずつ食事を出してくれる。父親はすでに一人でチビリチビリとやっている。

 なんとなく家中が「大晦日になった。一年の終わりが来た。」という独特の雰囲気に包まれ、とるともなく夕食を終わる頃になると、もうまとまった仕事など手につかなくなる。用事があるわけではないが気ぜわしく、テレビの前に座る。

 NHKの紅白歌合戦が始まる。若い歌手が先頭を切って登場し、母親も手を休めては自分の好きな歌手を応援する。そのうち「遙か南極の基地から・・・」とアナウンサーがNHKらしい声でメッセージを読むと、何故か海外で頑張っている日本人にエールを送りたくなる。

 歌詞はひどく暗いけれど、
「・・・あなた、変わりはないですか? 日ごと寒さが募ります・・・」
と都はるみの「北の宿から」が聞こえてくるようになると、もう紅白も終わりだ。子供はトイレに走り、母親は年越しそばの準備を始める。

 除夜の鐘が聞こえてくる頃、・・・ああ、新年だな・・・と感慨にふける。
「明けましておめでとうございます!」
普段ならとっくに寝ている子供も必死に除夜の鐘が鳴るまでは起きていて、家族一同で新年の挨拶をし、水の神様、火の神様、ご先祖様にご挨拶をして床につく。

 なにげなく、それでいて感慨深く進む大晦日の時間は、その一年365日の生活が自分の体と心に染み渡っていることでリアルになる。テレビから流れる紅白の歌声は「あれっ!この歌、今年だったの!」と驚いたり、思い出したりしながら聞くのである。

 いつの頃からだったか、紅白が面白く無くなり視聴率も低くなってきた。なにもNHKの企画が貧弱になったということでもない。

 かつて、美空ひばりのリンゴ追分も、いしだあゆみのブルーライトヨコハマも、お父さんの好きな歌と子供が歌う歌とは違ったけれど、紅白で歌われるほどの歌なら、おおよそは家族が知っていた。でも、それも昔の話になった。若者は日本語と英語の混じった歌を歌い、年寄りは懐メロを歌う。どうにもならない。

 歌謡曲は死に、紅白も死んだ。歌謡曲の死んだ後の紅白は惰性の紅白になり、知名度を高めるための紅白になった。NHKはいろいろ工夫してなんとか紅白を続けようとしているが、歌謡曲が死んだ後、大晦日に男女が他愛もない戦いをするには何がよいか、まだ日本人は考えつかない。だから、歌謡曲が死んでも紅白は続いている。

 でも、死んだのは歌謡曲だけではない。16世紀に書かれた近代絵画の傑作モナリザから440余年、1940年のピカソのゲルニカまで多くの素晴らしい作品を生んだ絵画はすでに死んだ。現代の絵画もそれなりに優れた作品を出しているが、もう日常的な話題になる絵はない。

 日本画でも、江戸時代の狩野、東海道五十三次の安藤広重、世界的に評価された浮世絵、そして明治以来の絵画の巨匠たちも今はすべて消え去った。

 バッハで始まり、ベートーベン、モーツァルト、ショパン、そしてチャイコフスキーと続いたクラシック音楽もすでに「懐メロ」だけが演奏されている。現代音楽は芸術作品として優れているものはあるが、日常生活の中で口ずさんだり、美しい音色として受け入れられてはいない。

 日本の純文学も同じである。紫式部の源氏物語以来、世界に冠たる作品を出し、明治に入っても夏目漱石、島崎藤村、そしてやや大衆的な作品の分野でも谷崎潤一郎、司馬遼太郎に至るまでそうそうたるビッグネームが続いたが、すでに残り僅かである。

 松尾芭蕉、正岡子規、与謝野晶子はどこに行ったのだろう? 大晦日に、掃除を終えてコタツを囲み、心に染み渡る歌を聞くこともできなくなった。心から絵画も、音楽も、文学も詩も消えていき、数字ばかりが頭の中に詰まっている。

 どうして文学も音楽も、絵画も無くなってしまったのだろうか? それも純文学やクラシックの様に「高級」なものばかりではなく、大衆小説や歌謡曲まで一網打尽でどこかに取られてしまった。私たちの心から美しい音や綺麗な色を奪ったのは誰だろうか?

 かつて巨人軍川上哲治の赤バットから繰り出されるヒットに酔いしれたプロ野球ファンは、今では「この選手は年俸何億円」という目でしか野球を見ることができなくなった。野球をやりたくて野球をやり、報酬は後にくるものだったが、いつのまにかお金を稼ぐために野球をするようになった。

 どちらが先でもよいということはない。お坊さんに心を込めて祖先を供養していただいて、そのお礼にお布施をお渡しするのと、「いくらなら何分やります」と言われるのとは違う。もし同じに感じるならよほど心が後退したのだろう。「命の大切さ、いたわりの心、癒し」などとは縁遠い。

 人間は現実を離れると劣化する。土から離れ、筋肉を動かさなければ劣化する。人間の頭脳は頭脳自体で動くことはできず、体の細胞が動けば頭脳が動く。昔からそう言われている。現代科学でも体の細胞の活動と頭の判断の関係が深いことが知られている。

 現実を失い、土から離れ、筋肉を動かさない人間は次第に劣化する。劣化した人間には美しい音、綺麗な色は無関係である。ただ寝て食べて、飲んで、あとはお金を数えて人生を送れば良いのである。

 紅白が生き返る日、その日が待ち遠しい。私は名古屋の郊外、春日井のマンションに住み、夜景を見ながらピアノを弾いている。やっとここならなんとかなるような気もする。

おわり