-河童(カッパ)がいて欲しい-

「三年前(まえ)の夏のことです。僕は人並みにリュック・サックを背負い、あの上高地(かみこうち)の温泉宿(やど)から穂高山(ほたかやま)へ登ろうとしました。・・・(中略)・・・僕は驚いてふり返りました。すると、――僕が河童(かっぱ)というものを見たのは実にこの時がはじめてだったのです。僕の後ろにある岩の上には画(え)にあるとおりの河童が一匹、片手は白樺(しらかば)の幹を抱(かか)え、片手は目の上にかざしたなり、珍しそうに僕を見おろしていました。」

芥川龍之介が昭和二年に書いた「河童」の一節です(旺文社本より)。芥川龍之介は河童に興味があったらしく、河童の絵を残しています。下の「水虎晩帰之図」という難しい名前の付いた絵も芥川龍之介が描いた河童の絵の一つです。


「水虎晩帰之図」

 日本の昔話の中に河童は良く出てきますし、少し前には清水 昆という漫画家がよく色気のある河童の漫画を描いていましたから年配の人にはなじみがあるでしょう。川や池の畔(ほとり)にいて人がやってくるとからかったり、ひどい時には子供を池に引きずり込んだりしていたずらをします。だから昔のお婆さんは孫に「池に近づいちゃダメだよ。河童が出るよ!」と言って脅したものでした。

 人間は変な動物を考え出したものです。体に毛はなく、皮膚はぬるぬるしていて青白く、両手は自由自在に伸び縮みして指は三本。おまけに指の間には水かきがあるという具合です。背中には亀のような甲羅(こうら)がついているのですが、それをはずすと人間に化けることが出来ます。好物はキュウリで、その名残(なごり)が今でもお寿司の「カッパ巻き」に残っています。

「江戸時代、五反田田原の三つ丸に園田氏が居住していた。それはある大雨の夜だった。この家の表戸を叩く者がいるので戸を開けてみたら、子供の背丈くらいのかっぱが立っていた。『朝方所用があって出掛け、今帰ってみたら、戸口をやまたの怪物がふさいでいて、家に入れません。妻も子供もさぞ待ちわびていることだろうと案じられます。あなたの力で、この怪物を退治して下さい。』

 かっぱの案内で行ってみると、戸口が馬鍬(まが・農具)にふさがれていた。『何だ、これが怪物か。』と、その馬鍬を取りのけてやったところ、かっぱは、『このご恩は決して忘れません。あなたの家の七代後まで、どんな大水が出ましても床上まで水の上がらないように祈ります。』
と心から礼を言った。

 それからというもの、あのかっぱの言ったとおり、川棚川にどんな大水が出ても、この家に限って何ら水害を受けず、また時々ささ竹や藁茎(わらぐき)に通した川魚が、家の戸口につるされていることもあった。これはみんなかっぱの恩返しに違いないと言われた。この家はそれから七代目になった時、家を三つ丸から川向うの刎田(はねた)に移した。ここなら土地が高いので川棚川が大水になっても水害を受ける心配がなかったからである。」(喜々津健寿さん著「川柳歴史散歩」より)

 この話は河童の民話の一つですが、日本中に読み切れないほどの河童の伝説や民話が残っています。なぜ、日本人はこれほど河童が好きなのでしょうか?この日本製の怪物のことを少し考えてみました。

 まず、喜々津健寿さんが紹介されている話ですが、まだ近代科学が発達していない頃、人間にとって自然の出来事はどれも恐ろしく、理解ができないものでした。ある村の近くを流れる川が氾濫して、ほとんどの家が流されたのに、一軒だけ幸運にも流されなかったということがあったのでしょう。現代ではすぐ土木の専門家が駆けつけて「この河川の流れにはある特徴があり、・・・」と分析をして、その家だけが流れなかった理由を流体力学的に説明するに違いないのです。

 でも昔はそうではありませんでした。力学も流体も学問にはなっていなかったのですが、それでも人間は「理由を知りたい、わかりたい」という気持ちがあったのです。そこで河童の登場になります。その家が流されなかったのはきっと・・・ご先祖様が河童に功徳(くどく)をされて、その恩返しで水をあやつる河童が恩返しをしたのだ、いや、それに違いない!と納得するのです。

 特に日本では生活は河川と共にあり、時に水害で大きな痛手を受けることがあったので、河童伝説が長く伝えられたのだと思います。

 でも河童の存在は私たちに別のことを教えてくれます。

 ・・・お婆さんにとってはその孫は宝物でした。活発で利発できっと将来はこの家を背負って立派にしてくれると期待していました。それはお婆さんでなくてもそう思ったでしょう。記憶力は抜群で、まだ5歳だというのに近所のどんな小さくて難しい地名でもすらすら言うことが出来ましたし、九九は自由自在、すぐ計算してくれるのです。おまけに体も丈夫でその敏捷さと言ったらこれも町一番なのです。お婆さんが自慢したくなるのも判るというものです。

 でもお婆さんにも悩みがありました。それはこの可愛い孫はあまりに活発で、どこかに飛んでいってしまいそうだからでした。お婆さんはいつも「行ってきますっ!」といって孫が飛び出していく時「気をつけるんだよっ!」と慌てて声をかけるのです。

 そんな日が続いていたある日、お婆さんの心配は本当になりました。遊びに行った孫が帰ってこないのです。緊張が走る家、夜通しの捜索、そして最悪の事態・・・あの、あの利口で活発だった孫が変わり果てた姿で家に帰ってきたのです。
「河童に引きずり込まれた・・・」
冷たくなった孫を抱いて帰ってきた父親はそう言ってそっと息子を布団に降ろしました。

 それからしばらくしてあの池、孫がその命を失った池の畔に座っていました。お婆さんの手には“ハエたたき”のような形をした棒がしっかりと握られていました。
「この河童っ!出てこいっ!なんで引きずり込んだんだっ!」
お婆さんはその棒で池を叩きながらそう小さく叫んでいるのです。

 あの、あの利発な孫が自分で池に入るはずはない、きっとこの池にすむ河童が可愛い孫を引きずり込んだに違いないのだ。だから河童をお仕置きしなければならない。そんなことをしても孫が帰ってくることはないだろうが、それでもその悪い河童をお仕置きして孫の敵(かたき)を打たずに済むものか、とお婆さんは力一杯、池を叩くのだった。

 人には悲しい時がある。理由もなく幸福が奪われることがある。それは現代でも大昔でも人間が生きている限りは続く。そしてどんなに悲惨なことでも事実は事実であって、受け入れなければならない。でも人間の心はそれで納得するわけではない。そして事実はそれほどはっきりした事実でもない。だから実際に河童がいるのかいないのか?などはそれほど重要ではない。人間は食べて寝て、単に息をしていればそれでよい、という存在ではない。

人間が生きる意味は心の充実にある。それがたとえ幻想でも私たちの心は悲しい時にも納得することを求め、楽しい時には人にその楽しさを分けたくなる。だから、人の心に河童が必要なら、それが非現実的であろうが非科学的であろうが、日本の生活の中に残る。

 私たちは今、心を失っている。喜びも、感動も、同情も、悲しさもすべてを失い、ただどれだけ能率が上がるか、目の前のことをどれだけ短い時間で済ませることができるかだけを考えながら人生を送っている。河童のいる生活は悲しさもあるけれど生きている実感もあっただろう。

おわり