-努力、救い、そして奇跡-

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いくたびも参る心ははつせ寺 山も誓いも深き谷川
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 身の丈10メートルを超える十一面観世音菩薩で有名な長谷寺は観音信仰の一つの頂点にある。この寺の発祥の地であり寺の隣に位置する霊峰との接点に日本古来の神をまつる三社権現が建てられ、その横に間口9間、入母屋造本瓦葺の真言宗の国宝・本堂が聳えている。

 大小50ほどもある大伽藍群が林の中に立ち並ぶ姿と四季折々に咲き誇る花は見事であり、その中でも木々の間から見える五重塔は美しい。まるで絵物語がそのまま目の前に現れたような錯覚すら覚える。日本建築はなんと美しいものであろうか。

 ところで観音様に願をかけるいわゆる「観音信仰」は今から1000年ほど前の平安時代に盛んになった。苦しみ、悩む衆生が観音様のおられるお寺にお参りしてお願いをする。心優しく万能の力をお持ちの観音様は苦しんでいる民の心をくみ取ってくださり、病気平癒に始まり、あらゆる苦しみを除いてくれるのである。
 
 観音様は静かに、そしてやや微笑みながら立っておられる。その足下に跪き、お御足に手を乗せて心の底から一心に観音様にお願いをする・・・私の愛する人が苦しんでいます・・・どうか、お助けください・・・

 長谷寺から50キロほど南へ行くと吉野山の麓に達する。そこから少し山道を登り金峰山寺の本堂である蔵王堂につながる長い階段の下に出ると「脳天大神」という珍しい名前の神社がある。その縁起は次のように語られている。

ある時、神社の近くを流れている河のほとりに頭をつぶされた蛇がのたうち回っていた。通りかかったお坊さんがその蛇を不憫に思って丁寧にお経をあげて葬ったのがこの神社のはじまりと言う。

 脳天大神は神様を祭る神社だから鳥居がある。その鳥居をくぐると正面にお線香を上げる場所があり、その奥に祭壇がある。そこで護摩供祈願が行われる。護摩供祈願というのは仏教の宗派である真言宗の作法の一つで、お経を唱えながら火を焚き、その力によってある時には悪霊を追い払い、ある時には修行を助ける。

 すべての生物は生を受けてもその一生を無事に過ごして往生することはない。ほとんどの生物は他の生物に襲われて捕食され、その一生を終わる。たとえ無事に生きることができても、毎日は食糧を確保するだけで精一杯である。そういう一生を送る。

 そんな生物の中で人間だけは特殊である。特に20世紀に入ってから先進国に住む人間は生物が地球上に出現してからの歴史を考えても、特別な存在となった。誕生してから一生を終えるまでまず食糧のことを心配しなくてもよく、また戦死しなければ他の動物に捕食されることもない。絶対的な王者に君臨しているのである。

 そんな人間だから悩みがあるはずもなく、病気で命を落とすかも知れないがその危険性は他の動物に比較すれば比べものにならないほど小さい。だからイエス・キリストは悩み深い人に向かって、
「空にさえずるヒバリを見なさい、野に咲くアザミを見なさい。何の悩みもなくあのように楽しげに生きているではないか」
とおっしゃる。

 その通りなのである。動物や植物から見れば人間の人生ほど楽で安全なものはない。悩みがある方がおかしいと思うだろう。でも人間は悩みがある。人間の脳は欠陥商品で、豊かになればなるほど貧乏になり、健康なほど病気の不安を覚え、そして幸福になればなるほど不幸になるという傾向がある。だから昔の人より現代の日本人の方が不幸である。

 そこで観音様にお参りして病気平癒をお願いし、脳天大神で祈祷してもらって入学試験合格、商売繁盛祈願をしていただく。でももともとおかしいことだと荒行を終えた僧侶が呟く。仏様もキリストも人間の悩みは欲から来ていると諭される。欲を捨てれば苦しみは無くなる。苦しみは苦しみ自体があるのではなく、自分の欲が鏡に反射して創造される幻想である。だから欲が無くなれば苦しみもなくなる。

 長谷寺にお参りし、脳天大神で祈祷していただくのだから、さぞかし信心が深く、仏のお教えを良く理解して欲から離れることもできると思うが、そこが人間の弱さで欲は捨てられない。そこで、欲を捨てなさいと諭している神様、仏様の前にいって自分の欲を満たしてくれと頼む。ずいぶん図々しいと言えば図々しいものだ。

 人間の欲がどういうものか、幕末に日本に来たスイスの遣日使節団長アンベールの旅行記に書かれた一節には次のように書かれている。
「若干の大商人だけが、莫大な富を持っているくせに更に金儲けに夢中になっているのを除けば、概して人々は生活のできる範囲で働き、生活を楽しむためにのみ生きているのを見た・・・」

 お金を持つとさらにお金が欲しくなる。莫大な富を持つ大商人はさらにお金を求めて時に汚い手を使っても稼ごうとする。でも庶民は違う。彼らは労働を楽しみ、なにが人生かをよく知っている。

 ガンジーはこういっている。
「こころというのは落ち着きのない鳥のようなものであると私たちはわきまえています。物が手に入れば入るほど、私たちの心はもっと多くを欲するのです。そして、いくら手に入っても満足することがありません。欲望のおもむくままに身を任せるほど、情欲は抑えが利かなくなります。」

 だから観音信仰に肖ったり、お札を売って願い事の祈祷をするような寺は邪道だと非難する人もいる。それに真言宗の長谷寺の中に権現があり、脳天大神には鳥居もあるし仏間もある。その形がおかしいだけではない。行いも仏様のお教えに反している。確かにお札を乱発して信者からお金を巻き上げているとすれば非難に値するかも知れないし、その方が論理的に正しいように見える。でも、そんなことを問題にするのはいかにも本質から離れた些末な議論である。

観音様はなぜ願いを聞き入れるのだろうか?

 もともと人間は十分に幸福で悩むことなど無いのである。でも人間は悩む。そこに人間の愚かさがあり、お釈迦様も苦しみ、宗教が生まれた。観音様という存在自体が人間の脳の作りの不完全さの証拠であり、欲を消せないから観音様がおられる。当然ではあるが観音様はそれをよくご存じなのだ。

・・・そう、仏様のお教えはあなたの欲を捨てることです。そうすることができればあなたがそれほど悩んでいることもウソのように無くなりますよ。でもそれはできないでしょう。出来ないから私のところに来たのですから、私があなたの悩みを消してあげます・・・

 そんな優しい観音様にお願いするのだから、せめて自分ができる努力だけはしよう。寒い冬の朝でも、灼熱の太陽が照りつける日でも、いくたびも幾たびも参ります、一日も欠かさず痛む足を引きずってはつせ寺の観音様にお参りをします・・・努力は厭いません・・・だからお救いください・・・

でも、努力はかえって欲を増やし、それ故に願う心も強くなる。人間は努力をすると報われたくなる。努力をすると人より高くなるのでそれだけの見返りが欲しくなる。何もしない願いは純粋だが、努力の後の願いは不純になる。人間はどうあがいても無駄なのである。

 私は長谷寺の観音様の足下に跪き、齢、還暦にして「願い」というものがどういうものかということを垣間見たような気がする。そして本堂から出て晩春の柔らかい光の中で谷間に軒を並べる伽藍群を眺める私の目に奥の本堂の観音様が見えるような気がした。ああ、ここにさえ来れば・・・そう願った人たちの息づかいも聞こえた。はつせ寺の谷川はその舞台なのであった。

 旅はそれからも続いたが、私は一心に祈り、そして願うようになった。自分にはできないこと、人間では克服できないこと、もともと自分の欲から出た幻想だから消すに消せないこと、それを願いという形、祈りという形で少し出せるようになった。

 祈りは自分を小さくする。自分の栄達や健康を願うのは図々しい。家族の健康かな?いや、家族の希望を叶えて欲しい・・・家族でいいのかな?いったい私は何を望んでいるのだろう?私は何を考えているのだろう??

 心の鏡は欲を映して悩みに変え、祈りは悩みを照らして迷いに導く。天川の夜の風が薄暗い祭壇を吹き抜け、光のない舞台で救いをまた少し理解することができた。行いはすべて苦悩になり、自らがそれを解決することはできない。だから私たちにできることは生きることと願いだけであった。


(撮影 坂本健太郎)

 生きて願う・・・でも、平安時代もそうであったように、おそらく願いは時にはお聞き入れにならない時もあるだろう。絶望の淵に沈み、観音様にお参りし、それでも願いは遠くへと離れていくこともあっただろう。そんな時、人間はどうして救われることができるのだろうか?

 それでも、大丈夫なのだ。私たちの悩みは私たちの欲が発生させた幻であり現実ではない。だから祈りと願いによって無くなる。そしてそれでも無くならない時には神様は奇跡を用意してくださる。絶対に助からない時でも神様は奇跡をおこして救ってくださるのだ。

奇跡が非科学的だと反論するのは見当外れである。なぜなら、奇跡を願うもともとの原因は欲にあり、欲が鏡に映った幻が悩みであり、それが奇跡を望む。だから奇跡を願う悩みは幻想である。もし、観音様が願いをお聞き届けにならなければ、如来様が悩みのもと、願いのもと、絶望の淵の原因となっている欲を取り去ってくださる。だから必ず奇跡は起こり、願いは聞き届けられる。それは物質の世界ではない。

こころの信仰を失った現代の人には願いが叶うすべがない。一つの願いはもう一つの願いを生み、それは増殖する。努力は願いを強め、願いは絶望を招く。でも、物の充足は信仰への回帰を求めている。

おわり