-知の目的-

 若い頃、私は今では新しい会社に衣替えした中央公論社の「世界の名著」というシリーズの本を買って読み耽ったものである。その中にいくつか強い印象を受けたものがあった。ダーウィンの「種の起源」、ホッブスの「リバイアサン」、そしてプラトンの「ソクラテスの弁明」だった。

 その中でも特に私の印象の残っているのはプラトンがソクラテスの言ったことを記録した「ソクラテスの弁明」だったが、その時の私の印象は「ソクラテスという人の頭は鋭利な刃物のように切れる」ということだった。ソクラテスと弟子たちの交わした問答の鋭さにすっかり参ってしまったことを覚えている。それまで食わず嫌いだったギリシャの哲学や文学に興味を持ったのもこの書が初めてだったし、若く傲慢だった私が、おそらく初めて「知」というものを知り、ずいぶん傲慢な話だが「世の中には自分より切れる人がいる」と実感した時でもあった。

 その後も哲学には興味を持ち続け多くの本を読んだ。そしてギリシャ哲学やイギリスの功利主義の議論などは面白かったけれど、ドイツ哲学はそれほど興味を持てなかった。それでもドイツ哲学やイギリス文学というのはある意味で知的産物としては人類の遺産と言うべきものであり、それらを読みふけるとちょうどベートーベンの作品を聞くように心地よく、そして知的興奮を覚えたものだった。

 そして19世紀初頭のヘーゲル、同じ世紀のヘルムホルツを読み、私がヨーロッパに惚れ込もうとしたとき、私は反対方向から酷いショックを受けることになる。それはガンジーの哲学だった。ガンジーの哲学を一言に言えば、
「人間の頭脳で「良いこと」の方向に行けば滅びる」
という単純なものである。つまり驚くことに「知」は人類の滅びる原因となるということであった。



(ヘルムホルツ)

 私はもう一度、歴史を整理してみて愕然としたのである。ソクラテス、ヘーゲル、そしてヘルムホルツ・・・あれほど素晴らしく美しく、そして叡智に満ちている人たち、その人たちは実はその裏で世界の人を圧迫し、奴隷のように労働させ、それから作られる美味しいものを食べながら生活をしていたのだ!なんということだろう!

この地図は19世紀を中心として描いた植民地地図である。茶色に汚いところが世界各地に植民地を作ってそこからの富をむさぼった帝国、灰色の国々は植民地にされた国、そして緑がかろうじて植民地になるのを防ぎ独立を保った国である。日本は幸い緑だった。この地図は中国を植民地として色づけしてあるが、「中国は植民地にはならなかったのではないか?」との疑問もあるだろう。たしかに歴史的には植民地とはされていないが、アヘン戦争を前後して中国が世界の帝国群にその富を「中国の意志に反し、軍事的に」収奪されたのだから、準植民地にいれてもよいと判断した。

 このように世界地図に色をつけてみると、私が尊敬していたイギリス人の手にある紅茶はセイロンを奴隷にしたものだった。ドイツ人がソーセージに使ったペッパーはインド人の血で作られたものだった。もちろん、彼らは世界の頭脳であり、人類全体を鋭く観察できることはその著者群から良く理解できる。だから、紅茶が植民地から運び出される労働者の状態も、香料貿易の悲惨な実体もよく知っていた私にとっては、それとあの高尚な知的活動との関係があまりにも離れているのに愕然としたのである。

 そう言えば昔、「アテネは民主主義と言われるが、人口50万人の内、奴隷が48万人。ギリシャの哲学者は奴隷に働かせて、自分たちは遊んでいたから哲学ができた。」という言葉を聞いたことを思い出した。ソクラテスもプラトンも生活のために働く必要はなかった。「知」は他人を搾取しないと成立しないのだろうか?私は深い絶望と疑問に取り憑かれた。

 そしてもう一度、彼らの著作を読み返してみると、彼らが「人間」といっているのは「白人男性のうち、頭が良く生まれがよい人たち」であることがわかった。有色人種はもとより白人女性も「人間」の中には入っていない。そして彼らが言う「宇宙」とはギリシャ時代はギリシャ、や後にはヨーロッパの住みやすいところだけであり、「幸福」とは彼らの価値観が満足されることだった。

 そして私は急速にヨーロッパ哲学熱が冷えていくのだが、まだ私には「知」というものに対する尊敬心が残っていた。

 このシリーズで「ルーシーのお尻はなぜ大きい」ということを書いた。人間の頭脳はどんどん大きくなり、それは女性のお尻の大きさに比例している。女性のお尻が大きくなるとそれだけ脳の体積が増えて「知」が高まる。でも、そしてなぜ女性のお尻が大きくなったかというと、脳は「自分を守り、自分を強くし、弱者を痛めつけ、自分だけが有利になるように万全を尽くす装置」であり、それが他人より大きくなると自分が勝つからである。

  人間は生物である。生物は自然淘汰で生存し、他の生物を圧迫することで繁栄する。だからヨーロッパ人が知の働きでアジア人を奴隷にするのは正しく、できるだけ他の生物や種族を圧迫するためにより大きな頭脳を求めたのも生物としては正当だったのだ・・・ヨーロッパ人が知を磨き、知によって植民地を作り、アジア・アフリカの人たちを奴隷にしたのは生物活動としては正しかった。

 私は大学の先生だ。大学と言うところは学生に学問という形で「知」を教えることだ。何のために「知」を教えるのだろうか?それは他人より上に立つ能力をつけさせることであり、限られたパイをできるだけ多く獲得する手段をつけさせることである。

私は学生を教育するのがイヤになった。学生に「知」の力をつけさせること(教育)は学生が社会にでて他人に被害を与える為の行為であり、それは実は、私自身が大学を卒業してから今日までの姿に他ならない。そう、「知」の目的は独占であり、収奪であり、そしてそれからでる行為は残虐である。そしてさらに「知」はそれを「知らん顔をする奥深さ」を持ち、「他人に責任を転嫁する技術」を持っている。

 「知」という響きは美しい。「知の創造」「知の遊戯」・・・どんな熟語を使っても「知」という文字が入っていると美しい。それは人間にとって「美」「力」と同じ魅力を持っているからだろう。人間が他の生物や他の人種、そして自分の国の他の人に対して優位に立つ原動力、それが「知」「美」「力」である。我々は競争というものに唯一の価値を見いだす生物の一種であり、だから「他を圧迫できる能力」を「素晴らしい」と感じる。

 私はこのことを2枚の写真に託して自戒する。それは長崎に原子爆弾を落とした世界的な物理学者オッペンハイマーと、頭上に落ちてきた原子爆弾で両親を失い、今、最後に残った弟を亡くして共同墓地に埋葬に来た少年の写真である。

 オッペンハイマーは世界的学者として尊敬される。その人はみずからの優れた頭脳を使って原子爆弾を作り、それを広島と長崎に落とした。その下にいた多くの人たち、その人たちは学問は無いかも知れないが、他人の頭の上に原子爆弾を落としはしない。明らかに最後の家族を埋葬するためにやってきた少年の方が優れた人間と私には感じられる。

 「私たちはどうせ誠意ある態度はとれないのだ。それは判っているじゃないか。私たち指導者にできることは「知」の醜さを隠してそれを売ることだろう。そんなことは判っているじゃないか、書生論は意味がない、歴史的にも「知」が「欲」に勝ったことはないのだ・・・」、と私の周りの人は言う。

でも、それは違う。人間が書生論に立ち返ることができたら、人間だけで地球を占有することもなくなり、人間は地球上の生物に尊敬される存在になるだろう。そしてそれができなければこれまで地上に出現した多くの生物の中でも最悪の種であり、単なる暴君に過ぎない。それが判り、行動ができて初めて「知」ではないか?

(おわり)