蒙古襲来

第二話 文永の役

 

 モンゴル軍の日本侵略、世に言う蒙古襲来は4話に分けて話を進める。第一話はごく短い紹介であり、第二話が文永の役、第三話が弘安の役、そして第四話が日本がなぜ勝ったかについての私見である。今回は第二回の文永の役の解析を示す。


2. 文永の役

 文永の役のモンゴル軍の総司令官は征東都元帥・忻都,副司令官は征東都副元帥・洪茶丘および劉復享,そして高麗軍司令官・都督使,金方慶.このとき洪茶丘は47歳.率いる軍勢は蒙古軍が1万5000人,高麗軍8000人,そして船のこぎ手が6700人,軍船900艘という出で立ちであったと言う。

これに対して日本軍は3方面に分かれて防いだが,赤坂方面に菊池氏(武房),詫磨氏,竹崎氏,白石氏,山田氏,秋月氏,粟屋氏,日田氏,松浦党,箱崎方面に大友氏,島津氏,そして博多方面主力に菊池氏(隆泰,康成),赤星氏,西郷氏,葉室氏,難波氏,戸次氏,千葉氏,野田氏,光友氏,山代氏,石志氏,城氏,龍造寺氏,大村氏,有馬氏,高木氏,深堀氏,山鹿氏,紀井氏,臼杵氏,児玉氏である.身分としては守護職3家1500人,地頭・御家人31家から各家125人の総勢5375名であった。

兵力はモンゴル・高麗軍と日本軍は、5.5対1で、日本軍が圧倒的に劣勢だった。文永の役は数のうえで日本軍が5分の1だったことを頭に入れて戦闘の状態を見なければならない。

 多少,軍勢の違う記録もある.「元寇-本土防衛戦史-」(陸上自衛隊第四師団司令部 1963年)では,蒙古軍総兵力4万600人,梢工・水手1万5000人,戦闘部隊兵力2万5600人,兵站5000人,交戦兵力2万人,日本軍の総兵力は騎兵5300騎,総兵力1万人とされている。

 この資料に基づけば、モンゴル軍が4万、日本軍1万だが、モンゴル軍のこぎ手などは兵力に入らず、光線へ威力だけなら、2万対1万になる。つまり遠征の場合は、モンゴル軍10万に対して、対する**軍5万といっても、実際の戦闘兵力はその通りではない。日本の場合は博多の周辺の民家などは戦闘に巻き込まれ、食料などを提供しているので、全兵力の比率を出すのは難しい。

 モンゴル軍は1274年10月3日,軍船900隻に分乗して合浦を発し,10月5日払暁対馬の沖に姿を見せた.ちょうど今の午後4時,夕暮れであった.当時の時間では申の刻になる.翌6日,助国が80騎の手勢を引き連れ通訳を引き連れてモンゴル軍団に叫んだ.日本側とモンゴルの最初の接触である。

 これから後は史実から少し離れて具体的な描写を交え、戦いの様相に思いを馳せたいと思う・・・

「なんのゆえにぞ,この地に来たるや」

 そして対馬での壮烈な戦いの始まった.対馬の西海岸の小茂田の海岸での戦いは約1000名のモンゴル上陸軍と80騎の助国の軍勢の戦いで,衆寡敵せず,さらにモンゴルの武器は毒矢や現代流に言えば手榴弾のような「てつはう」もあって,助国の軍勢が押され始める.

そこで助国の子の馬次郎が叱咤激励して叫ぶ.
「引くな! ものども.ここを引いて何処の国へ逃がれるぞ.見ておれ! 戦はかくするものぞ.」
 二間の大薙刀をもち敵軍に突撃する.これを見て養子の孫次郎,八郎,刑部丞郎仁三郎,庄太郎,肥後の国の御家人江井の藤三,源三郎が奮戦して一時は勢いを取り戻したが、なにせ敵兵の数が違う。

ついに、助国,
 「夷狄に背を向けてなんとするぞ!戦いに敗れては日本の恥辱であるぞ」
と敵中に切り込み胸板に矢を受けて最後を遂げる.続いて,馬次郎.
 「後詰めの味方もないこの孤島がどうして保てようかッ!もはや,いさぎよく死ね! 死ね!」
と叫んで敵軍深く斬り込み,これもまた討ち死にしたと伝えられる.

この討死は後にモンゴル軍の撤退の伏線になる。助国とその配下の武将の名前は学校の歴史で教えるべきだろう。身を捨てて日本本土を守った英霊だからである。自らの国に誇りを持ち、歴史上の英霊を尊敬することは正当な教育である。

 ともかく、対馬の戦いは小茂田浜を中心として助国軍がほぼ全滅するまで続いた.そして、対馬が全滅するとモンゴル軍は,ほぼ1週間かけて14日に博多への進路にあたる壱岐島へ攻め入った.

 このとき、対馬・壱岐ともにはいわば「見殺し」にあったようなものだった。壱岐の守護代平景隆はモンゴル軍が対馬を攻め宗助国が助けを求めていること、このままでは助国の軍勢は全滅するだろうことを知っていた(正確には本人に聞いてみなければ判らないが).平景隆は必死に守護の少弐資能に使者を送って援兵を求めたが,援軍は来ない.壱岐は島であって逃げることもできない。島の農民も漁民も覚悟を決めて戦闘に加わった.

 モンゴル軍は対馬と同じ夕刻迫る申の刻,壱岐島の西海岸板木の浦に200名ほどを上陸させた.直ちに交戦となり,その日は勝負はつかない.景隆は,後から後から来る敵兵の数を見て,
 「野戦はできぬ.城中に立て籠もるぞ.」
と「籠城戦」に入った.

明けて次の日は,朝から激戦が続き,夕刻には城の木戸が破られた.大将・景隆が自ら出陣,敵を城門内から追い出すが,城の東矢倉から出火,城兵が城になだれ込む.景隆は,
 「もはや,これまで.皆の働き,忘れまいぞ!冥土の土産にひと暴れせん.いざ.」
と盃を交わし25騎で突撃して城内に帰り切腹して果てた.

 壱岐の島を制圧したモンゴル・高麗連合軍は男という男は全部,斬殺,女子は掌に穴を開け縄を通して船縁に吊るした.この連合軍の暴虐ぶりはわずかな生き残りが本土に伝えて歴史にも残っている。モンゴル人も朝鮮人もひどいことをした。非戦闘員を殺害するだけでも残虐だが、おまけに手のひらに穴を開けて船縁につるすなど人間のすることではない。歴史的にもきわめて残虐な例である。

 現代の日本はかつて日本人がひどい目にあったことを忘れようとしている。しかしこの元寇は今から僅か800年前で日本の歴史から言うと、つい最近のことである。壱岐の人たちが日本全体の為に犠牲になったことを忘れてはいけない。風化してはいけない。

 でもだからといって、日本人が朝鮮人や中国人、モンゴル人を恨んではいけない。歴史とはそう言うものである。自国の英霊は尊敬し、他国を恨まない。日本も同じようなことをしているのだから。

 ところで、迫る危機に本土では,鎮西奉行の少経資と大友頼泰が御家人を招集,経資が前面を,島津久経が箱崎浜の防衛についた.一方,松浦党は鷹島殿浦に上陸,島の東南「日本山」に本陣を構えて戦い,全員が玉砕している.

松浦党が膨大なモンゴル軍に全滅させられるのが判っているのに戦って全滅する有様をみてモンゴル軍は驚愕した.忻都は後に元の首都に帰って,
 「日本人はどうしたものか? 死を恐れず,1人で大勢の中に飛び込み,全滅を承知で戦う.日本人ほど恐ろしい敵を見たことはなかった.」
とフビライに報告している.

 この忻都の感想はこのシリーズ「常勝ニッポン」の第一のテーマである、なぜ日本人は勝ち続けるのか?に重要な鍵を与える。歴史上、世界的な規模で登場する日本人の行動の特徴として、頻繁に「死をおそれない」というパターンが見られるからである。

 この死をおそれないという言い伝えが正しいのか、錯覚か、なぜ死を恐れないのか、仏教思想か、それとももっと根元的なものか、はたまた社会的錯覚か、核心に迫るにはまだ早い。


文永の役合戦図

 19日になってモンゴル・高麗連合軍は博多湾に移動.迎え撃つ守備軍は,太宰府の守護・少経資の弟景資が総大将となり九州の諸豪族がそれぞれの陣場を守備する.そこにモンゴル西部方面軍,約4500人が上陸,博多の西,今津の守備隊と激戦になる.モンゴル・高麗連合軍は引いたり押したりしながら,鎌倉武士をひとりひとり討ち死にさせ,今宿から峠を越えて東進,姪浜まで進出,さらにそこでの防衛線も破り,日本軍はついに百道原まで後退した.

 ここでは一人で戦いその戦功を競う日本の戦術より集団で戦い、敵を引き込むモンゴルの戦法の方が優れているように見える。しかし、このことは最後の逆転劇につながる、これも伏線となっている。

 明けて20日,朝靄の中を今度は高麗軍の大将・金方慶の上陸部隊が室見川河口に向かった.かくして戦場は百道原,麁原,室見,百道原,赤坂と広がり,さらにモンゴル軍別働隊5400人が東の箱崎方面にも展開,島津,大友の軍を後退させた.併せてモンゴル主力の1万1000人が博多中心部の真北から進撃し,最短コースで水城,太宰府と狙う.

 モンゴル・高麗連合軍と日本軍の戦いは単調に,そして確実に日本軍が後退しながら進んでいった.戦功をあげんとして突撃する日本の武士を連合軍が引いて懐に入れる.そして取り囲んで討ち死にさせ,戦場からは馬だけが主人の返り血を浴びて帰ってくるという有様が続く.

 戦記筑紫本には次のように記録されているとされる。
 「鉾長刀ヲ以テ物具之明間ヲ指テ一面ニ立並ビテ寄スル者有ハ中ヲ引退テ両方ノ端ヲ廻シ合テ取篭テコロシケレ」
 こうした戦況の中でも77歳の少入道覚恵・資能は、
 「拙き味方の有様かな.少しの奇術に恐れを為して,引き色になるとは何事ぞっ.年老いたるといえど,入道が戦のさま,よく見ておれっ!」
と敵陣に突入,それに刺激されて戸次・秋月・松浦・原田の御家人や地頭等が敵陣に突入した.

また菊池重基と侘磨頼秀がそれぞれ130騎と100騎を従え,敵中に突入,郎等の多くが打たれ,重基・頼秀の2人も倒れたが,また起きあがり陣中に戻った.日本軍はこのように個別の武士が奮闘したが,連合軍は組織的な戦いで対抗する.じりじりと日本軍が後退し,今津・百道原,麁原の本陣が陥落し,防衛線の中央の赤坂にモンゴル・高麗連合軍が進んだ.西部戦線では竹崎,菊池,松浦党などが奮闘,東部戦線も大友直泰・同重秀らが頑張ったが支えきれない.

日本軍の総大将,少弐景資が 
「それぞれが戦っておっても埒があかぬ.ここはひとまず水城まで退いて態勢を整えん.水城を防衛の城壁として立て籠もり鎌倉の援軍を待たん.」
と決断して,自ら殿(しんがり)を勤めて退却に移った其の時,「葦毛白に黒みを帯びた馬に金覆輪の鞍を載せて」と言い伝えられる髭の大男が追ってくる.従う兵は15騎80人。

景資は,
 「にっくき振る舞いかな.よき大将と見た.」
と逃げ足を止め,大男を狙って発止と矢を射た.景資の矢は男の胸板を打ち抜いたが,これがモンゴル軍副司令官・劉復亨であった.葦毛白の馬は主を失い返り血を浴びて暴れる.連合軍は瀕死の副司令官を抱えて退却した.このような幸運にも恵まれて日本軍は水城に向かって退却を続けたのである。

 『八幡大菩薩愚童訓・筑紫本』
 「水木の城と申さば,前は深田,路一つ.後は野原広つつきて水木多く豊なり.馬蹄の飼場より兵糧の潤屋あり.左右の山の間三十余町を通して高急に岸を切立城戸には磐石の門を立たり.今者礎のみぞ残たる.南山に近臨は藍染河流たり.右の山の腰を深く堀り三里を廻れり.」
と当時の防衛線の様子を描いている。水城は防衛には好都合だった。

 ところで,その日の夜半は雨と風が突風となって吹き抜けた.旧暦の10月中旬といえば今の11月の下旬である。日本の武士団は小雨混じりの寒風の中で明日の戦闘に思いを馳せて身をひそめていた.不気味な風が吹く。

一方のモンゴル・高麗連合軍は海を背にして陣をはっていた。上陸前の計画では日本軍を太宰府付近まで押して海岸線にしっかりした本陣を構える予定であったが、日本軍の予想外の激しい抵抗にあい,副司令官は瀕死の状態になった.おまけに夜襲の危険もある.夕暮れとともにモンゴル・高麗連合軍は占領した海岸線を放棄して船に還った.

 トルストイの「戦争と平和」に次のようなシーンがある。

ボルジノの戦いの前夜,貴族で士官のアンドレイを親友のピエールが訪れる.戦いを前にピリピリしているアンドレイ,それを訝るピエール・・・夜は歴戦の勇士にも辛い.夜は不安と雄叫びが交錯する.

 やがて一夜が明け,日本軍は「今日こそ決戦!」と必死の覚悟を決めて敵の襲来を待った.ところがどうだ.モンゴル軍は夜がその帳を上げてもやってこない.やってこないばかりか,大船団が忽然として博多の湾から消えていた。

 『八幡愚童訓』
 「さるほどに夜も明けぬれば二十一日なり.明日に松原を見れば,さばかり屯せし敵をも居らず.海の表を見渡すに,きのうの夕べまで所せきし賊船一艘もなし.よもすがら嘆き明かしつるに,何とてかくはかき消して失せにけんと.唯夢かとばかり取らるる有様なり.」

 モンゴル・高麗連合軍はいったいどうしたのか? 朝鮮から出兵した高麗の記録を見てみる。
 「夜中ニ白張装束之人三十人筥崎ヨリ矢先ヲ調テ射ケルガ其事カウ震敷身毛余立テ恐シク家々ノ燃ル焔ノ海ノ面ニ移レルヲ海中ヨリ猛火燃出ルト見成テ蒙古共肝心ヲ迷ハシテ我先ニ逃ントハ後ニ生取レタル日本人帰レルト又彼蒙古カ一同ニ申上ハ更ニ誤不可有.」

 船から海岸の様子を見ていたモンゴル将校は,白装束の不可思議な格好をしたものが30人ほど筥崎宮から出て海に向かって矢を射ていた.夜の海の不気味さに慣れていないモンゴル人は、嵐模様でゴーゴーとなる海,白装束の怪人,そしてこちらに向かって射る矢.モンゴル将校は身の毛もよだつほどに恐怖を覚えた.そして,折しも博多が焼け,その炎が海面に映って海が燃えているようだった.

後に捕虜となったモンゴル兵の記録によると,船の上の兵はその恐怖で我先に逃げたい,陸なら逃げられるが海の上なので逃げることもできない,恐怖は恐怖を呼び,戦うどころではなかったと記録されている。

 『高麗史金方慶伝』
 「倭兵大敗,伏屍如麻,忽敦(忻都)曰,『蒙人雖習戦,何以加此,諸軍与戦,及暮乃解.』方慶謂忽敦・茶丘曰,『兵法千里懸軍,其鋒不可当,我師雖少,已入敵境,人自為戦,即孟明焚船,准陰背水,請復戦.』忽敦曰,『兵法小敵之堅,大敵之擒,策疲乏之兵,敵日滋之衆,非完計也,不若回軍.』欧亨(副将)中流矢,先登舟,遂引兵還.会夜大風雨,戦艦觸岩崖多敗」

 日本軍の反撃も激しい.新手も来る.高麗軍の指揮官・金方慶一人が強気で,このまま一気に攻めて九州をとらんとする主戦論を展開したが,忻都をはじめモンゴル軍の首脳は容れなかった.
 軍議が終わり,モンゴル軍は撤退を開始した.夕暮れからの雨は強くなり,風も吹く気味の悪い空の下,志賀島と能古島の間から高麗に向かった.天候はさらに暴風雨となり,帰路のモンゴル軍船が難破,合浦の港へとたどり着いた時には1万2350人を溺死で失った.

 日本側の記録は次のようなものが参考になるとされている。
 まず『兼仲卿記』は単に逆風が吹いただけと記している.
 「十一月六日戊寅,ある人の云く,去んぬる頃,凶賊の船数万艘,海上に浮かぶ.而して俄に逆風吹き来たりて,本国に吹き帰りぬ.」

 そして『八幡愚童記』正応本ではモンゴル・高麗連合軍の最後を次のように記した。
 「夕過るころ,白装束の人三十人ばかり筥崎宮より出で,矢さきをそろへて射ると見えしは,神の降伏し給ひしなり.この降伏にへきえきして,松原の陣を逃げ海に出けるに,あやしき火もえめぐり,船二艘あらはれて皆うたれ,たまたま沖に逃げのびたるは,大風に吹き沈められにけり.」

 モンゴル・高麗の連合軍が撤退を決め,博多湾外に出てから海没したとしている.それは高麗の記録も同じである。

 高麗の『東国通鑑』では,
 「復享中流矢,先登舟.故遂引兵還.会夜大風雨.戦艦触厳崖多敗.」
とある.ほぼ全滅の連合軍の中にあって,司令官の忻都,洪茶丘,高麗の金方慶は助かり,7年後,再び遠征軍の指揮官となった.

「一将功なって万骨枯る」とはまさに文永の役の元軍なのである。

 ところで、文永の役で元軍がなぜ退却したのか、その理由は日本と高麗、元の記録でほぼ確実であり、どうやら少なくとも「神風」ではないようである。最終的には元軍は散々な姿で自軍の港へ帰るが、それはすでに日本から撤退して帰路についた後である。

 歴史家の間でも文永の役の勝敗を決めたものについて定説はないようである。戦争の歴史はあるいは政治的に利用されることが多く、冷静な分析が難しい面もある。

 文永の役では日本軍も打撃を受けたが、モンゴルの方も海上の遠征や日本軍の抵抗で厭戦気分が広がったと解釈するのが妥当だろう。

第2回 おわり