-貯金をはたいて-

 倹約してやっと貯めたお金が手元にある・・・、思いがけなく小金が手に入った・・・、そんな時、そのお金で人生の幸福を味わうことができれば・・・と願う。でも結構、お金の使い方と言うのは難しい。それにはゲルマンの人のお金の使い方が参考になる。

 「ゲルマン」という文化はある時、ヨーロッパの北の方に誕生した一つの文化である。気候は寒冷だが森林に恵まれ、土地からとれる作物と森や河の動物を恵みとして生活した人たちの素朴で男性的な文化だ。時代は中世ヨーロッパだから今から500年ほど前と思ったらおおよそ間違いではないが、その印象は日本では縄文時代である。

 その頃の話である。

 ある時・・・

 ゲルマンの大地に広がる大きな麦畑を持った地主と、そこで働く10人ほどの小作農夫がいた。農夫たちは毎日、丸太で作られたこじんまりとした家で妻が作ってくれた温かいスープをすすり、それからやおら立ち上がって動物の毛皮のジャンパーを着込んで、鎌を抱えて家をでるのだった。

 この時期の仕事は麦刈りである。今の時間で言えば朝の9時頃から刈り取りを始め、おおよそ2時頃には終わる。途中、短い休憩とちょっとした干し肉をかじるほかには特に休みもとらない。相棒との朝の挨拶、短い休憩の時に交わす言葉、そして仕事が終わって傾いてきた日の光の中を仲間と帰る道・・・毎日、毎日、同じように進み、そして時が流れ、冬になる。

 そんなある時、地主が「新しい鎌」をもって農夫の前に現れて、言った。

 「お前たち、南から来る行商が新しい鎌を持ってきた。今、使っている鎌よりずっと固い刃でできているし、切れ味も鋭い。だから麦を刈るのもずいぶん楽だ。それに、刃も長いから一度に刈る麦の量も多い。仕事は楽になるし、時間も短くてすむ。今日から、この鎌を貸し与えるから、これでやってくれ。」

 地主はその鎌を農夫に配りながら、昨日まで9時から2時まで麦を刈って3マルクだったが、新しい鎌を使えば刈る量が増えるから4マルクにしてやる、と得意げに言った。それを聞いた農夫たちはあまりうれしそうな顔をしない。訝る地主。地主にしてみれば今まで3マルクしか農夫たちに与えられなかったのに、新しい鎌を仕入れて4マルクになるのだから、大いに喜んでくれると疑いもしなかったのだ。

 しばらくして、農夫の一人が、
「旦那さん、一つ相談があるんだが・・・」
・・・
 何だ、言ってみろと促されて農夫は重たい口を開いた。
「旦那さん、わっしらは3マルクで結構だで、その分、早く帰らせてはもらえんだろうか?」

 地主は驚き落胆した。農夫は3マルクから4マルクになるし、自分は収穫がそれだけ多くなるのでお金儲けができる、何の問題も無いと思っていたら、意外な答えが返ってきた。バカな農夫だ、と苛立った地主は、
地主 「3マルクより4マルクの方がお金が多いのだぞ。それだけ生活が楽になるのがわからんか?」
農夫 「旦那さん、わっしらは毎日、3マルクで十分やっていけるで・・・」
地主 「ふむ、毎日のことしか考えていないのだな」

 地主はそう言うと、この毎日のことしか考えられない農夫たちをどうしたら説得できるか思案をした。そして、そうだ!とばかり勢い込んで言う。

地主 「わかった。お前らは3マルクで生活はできるだろう。それは判った。だが、4マルクあれば、それを貯めておけば時には町に繰り出して遊べるぞ。町には酒もあるし、女もいる。それは楽しいぞ」

 農夫たちはまたも怪訝な顔をしている。いつもは酒好きで赤ら顔、そして時には卑猥な話で笑い転げている奴らだ。町にでたら酒も女もいるといえば、納得すると地主は思ったのだった。でも、農夫が次に言ったこと、それは歴史に残るほどの名言だった。

農夫 「旦那さん、やっぱり止めときます。あっしらは3マルクで十分でがす。そりゃ、あっしらもたまには町に遊びに行きたくなるが、それは、エーと、お殿様からお恵みをいただいた時でがす。」
地主 「なんでだ。もし毎日4マルクもらって貯めれば、お殿様にもらわなくても町に行けるのだぞ」
農夫 「へえ、でも貯めたお金では面白く遊べねえんですよ。フイにもらったお金じゃないとダメなんでがす」
 
 私はこの話を読んだとき、ひっくり返るぐらい驚いた。

 そして自分の人生がまったく間違っていて見当はずれだったことを知った。確かに「貯金したお金」は使うときに貯金したときの苦労が思い出される。だからそのお金で行く旅行の景色は曇り、お酒の味はまずい。人間は毎日の生活ができる程度の賃金をもらい、そしてたまにいただくお恵みで遊ぶのが一番幸せなんだ、そう言えば私もそうだ。私の脳裏にはこれまでお金を勘定しながら遊んだ時に風景が浮かんでは消えていった。

 お金というのは奇妙なものである。少ないと困る。多いとまた困る。お金があったからといって幸福になるわけでもなく、だからといって足りないと辛い。

 江戸末期に日本に来た欧米人の一人に、スイスの遣日使節団長アンベールがいる。彼は日本の商人と庶民を次のように記録している。

 「若干の大商人だけが、莫大な富を持っているくせに更に金儲けに夢中になっているのを除けば、概して人々は生活のできる範囲で働き、生活を楽しむためにのみ生きているのを見た。」

 まだ人間が機械にならずに人間だった頃、少数の商人、毎日お金を数えているような下賤な人たち、大商人だけがさらに金を儲けようとしているが、庶民は生活ができれば良く、生活を楽しむために生きている。それ以外の生きる理由はあるだろうか?

 私はこんな風に思う。現代の日本で年収600万円以上の人は偏執狂である。自分や家族が楽しく生きるのに600万円以上は要らない。お酒好きの人なら、それ以上もらうと肝臓病になるだけである。最近、厚生省が「がぶ飲みすると早死にする」ということを詳しい統計で示していた。かつて庶民はささやかな晩酌で一日を終わり、それで楽しかった。

 今の日本では酒類販売企業は国民全部がアルコール中毒にさせるまで販売を続ける構えだし、国民も飲み代ぐらいは家計に響かなくなったんで歯止めがきかない。下は日本陣のアルコール摂取量と大量飲酒者数を1965年からプロットしたものだが、今からわずか40年前と比較して日本人は約倍のアルコールを飲むようになった。与えられるものを拒む自由すら無くなったように見える。

アルコール摂取.jpg

 一代で財をなした松下幸之助が亡くなった時、275億円の資産を持っていたという。いったい、何を目的でお金をもらったのだろう?私は松下幸之助が好きだが、彼の財は彼が「神様」と呼んだお客様からのお金である。それを使えないほど取っていたとすると、私の尊敬の心も鈍る。

  古代、キリスト教は中東で誕生してローマに広がり、そしてゲルマンへと移った。彼らは最初木で教会堂を建築した。そしてすぐローマの石の技術を習って礼拝堂をつくる。ゲルマンの人たちは石のドームから生まれる反響と残響に神の声を聞いたのだった。

 そして今は、建築様式も、礼拝堂を埋める人たちも、そしてキリスト教自体も少しずつその姿を消し、人間は人間としての心を失いつつあるように感じられる。

 手元にある小金、これまで少しずつ貯金してきたお金、それでなにか楽しもうとか幸福になろうと言うこと自体が無理なのかも知れない。私たちは動物で、毎日、呼吸をし、食事を楽しみ、ゆっくりとした夕暮れを味わって寝床につく。それは何よりの幸福であり、人生ではないだろうか?

 でも、私たちの頭は洪水のように襲ってくる情報に惑わされ、「お金は多い方が良い」と錯覚する。そうではない。お金は「これが一番良い量」と言うのが決まっているのではないか。それがゲルマンの農夫なら一日3マルク。私たち現在の日本人ならどれくらいだろう?今、手元にあるお金より少なくてよいことは間違いない。

(おわり)