かつて人類は「害虫」に苦しんだ。現代の日本の都会のように蚊もあまり見られなくなった生活では考えられないが、人類の歴史は害虫との戦いだったと表現する学者もいるくらい、害虫は生活を脅かす大きな災害の一つだった。

 害虫で犠牲になるのは「弱い人」だった。例えばマラリア。ハマダラ蚊が媒介するこの恐ろしい病気は幼い子供が犠牲になる。高熱を伴う、酷く苦しい病気であることもよく知られている。

 殺虫剤DDTが届いていなかった頃の沖縄。その悲惨な状況を新聞は次のように伝えている。

 「南風見で疎開生活を始めて一カ月も経たないうちに、マラリア感染者が出る。高熱と悪寒に苦悶(くもん)する患者に与える特効薬は無く、ヨモギやバショウの葉を煮詰めた熱さましを飲ませるのがやっと。マラリアは瞬く間に疎開者にまん延し、抵抗力の弱い児童たちは次々に倒れていった。」

 「約四カ月間で、南風見では二十二人の児童を含む八十五人がマラリアの犠牲に。マラリアは感染者が波照間島へ戻ってさらに猛威を振るい、六十六人の児童が亡くなった。」

 その沖縄にDDTが到着して、マラリアは退治されたのである。

 子供達にとっては救世主のようなこのDDTは当時だけでなく、今でも多くの環境運動家に「悪魔の白い粉」と呼ばれて追放されている薬剤である。社会がDDTを追放した経緯は現代のダイオキシンにそっくりである。

 DDTはミュラーによって発明され、その特効から「人類最大の発明」と賞賛されて彼はノーベル賞を貰っている。なぜ、ミュラーのDDTはノーベル賞を貰ったのだろうか?

 DDTはそれまで使われていた「トリカブト」などの薬剤と違い、昆虫の神経を攻撃する新しいタイプの殺虫剤だった。それまでの殺虫剤は昆虫にも人間にも毒物だったので、人間には毒性を示さない「量」に注意して使わなければならなかった。

 でもDDTは人間の神経にはほとんど影響を与えず、昆虫だけを攻撃するという性質だったから多用されるようになったのである。

 ところが人間に対して毒性が低いということになると、人間というものは我が儘なものである。マラリアなどの退治に対してのみ慎重に使えばよいものを、大量に製造しヘリコプターから大地にくまなく散布するということを続けたのである。

 やがて大地には昆虫がいなくなり、昆虫を餌にする鳥が少なくなり、春になっても鳥の囀りを聴けなくなった。そうなると、今度は人間がヒステリー状態になる。「DDTが原因だ。DDTを追放せよ!」ということになって製造が中止される。

 その時、DDTを追放した先進国はすでに「DDTを使ってマラリアを撲滅した後」であったが、開発途上国は「これからDDTを使ってマラリアを退治しようとしていた時」だった。DDTの製造中止で発展途上国の人は今でも毎年100万人以上がマラリアで亡くなっている。

 先進国の環境運動家による大量殺人事件と言っても過言ではない。「有色人種は死んでも良い。我々の周りに鳥がいなくなる方が問題だ」という先進国の論理には、先進国の中でも納得しない人たちがいた。

 「DDTは毒性が弱く、使い方によっては多くの人を救うことができるのに」と憤激した人がDDTの毒性が弱いということを証明するために1年間、DDTを飲み続けた。もちろん、その人が健康だったことは言うまでもない。

 でも人体実験をしたからといって社会がDDTを見直すことにはならない。なぜならDDT騒動というのは「事実を見ない」ことから発生しているのだから、「DDTの人体実験」という事実を示しても何の意味も無いのである。

 世の中には「毒物」と「食べられるもの」の2つがあるという間違った考え方もこの背景にある。たとえば子供がどろんこになって遊んでいるとしよう。昼食時になってお母さんが「ご飯よ、あがっていらっしゃい!」と声をかけた。子供はどろんこのまま家の中に入ろうとすると、そのお母さん、

「ダメじゃないの!ご飯食べるのだから洗ってきなさい!」

というだろう。だからといって「土」で遊ぶ子供が危険にさらされている訳ではない。「土」は食べられないが、「安全」なのである。

 ところで、DDTを追放してもなんら環境は改善されなかった。もともとDDTの毒性は弱く、「悪魔の粉」という形容詞は社会が事実と異なるレッテルを貼ったに過ぎないからである。「事実と異なる判断や行為」が環境を改善できることなどは無い。

 環境問題は重要だ。だからこそ、「足をケガしているのに手に包帯を巻く」ということをしていては命に拘わってしまう。正しく事実を見つめ、先入観を取り除き、そして次世代の日本の為に本当の環境を守らなければならない。

 この世にある化合物や組成物はどんなものでも毒性があり、また少量なら毒性を示さない。動物の体内にある水銀、カドミウム、鉛などのいわゆる「有害物質」は「必須元素」でもある。量が多ければ毒物であり、量が少なければ必要なものなのである。

 ダイオキシンの毒性は弱い。通常の生活でも私たちは常にダイオキシンを摂取している。ダイオキシンが出ると言って、たき火がほぼ禁止状態にあるが、人間は太古の昔から囲炉裏端で生活をしてきた。目の前では常に「たき火」をしている状態だった。

 現代でも、タバコは口元のたき火であり、焼き鳥は鶏肉のたき火である。「魚のお焦げに発ガン性がある」というのが誤報だったことはすでによく知られているが、この騒動も「お焦げをお茶碗一杯に詰めて毎日食べたらどうなるか?」というような話が一緒だったので混乱を招いた例である。

 ダイオキシンは人類が創り出した化学物質でもないし、昔は無かったものでもない。大昔から人間の生活と共にあった化合物だったが、それを大量にある動物に摂取させると薬害が出るということである。まだ、ダイオキシンで死に至った人間の例は皆無に近い。

 でも難しいのは「悪魔の粉」と言われたDDTも「人類史上、最強の毒物」と言われたダイオキシンも犠牲者が出ていないし、遺伝的な異常も起こらないのに、いつまでも魔物として残っている。毒物が毒性を示せば案外、議論は無くなるものである。

 私たちは「環境」と言い、「心」と言い、「美しい日本」と言って何を守ろうとしているのだろうか?水銀、カドミウム、鉛、DDT、ダイオキシン・・総てを追放した社会で人間は生きていくことができない。毒性が強いと言われるコバルトを追放した町は重度の貧血患者を出して自分たちの非を知った。

 コバルトも他の化学物質もそうであるが、「自然の状態にある量より極端に多くなると薬害が起こり、極端に低くなると障害が出る」ということである。ダイオキシンもそうで「自然のたき火、囲炉裏、焼却炉などから普通に出る量ならば問題無い」のである。

 またダイオキシンが動物にとって必要な物質であるという研究結果もある。私たちが守るべき環境とは「私たちの中途半端な知識で極端な状態を創り出す」ことではなく、「私たちが守ってきた自然の環境に戻す」ことではないだろうか。そのためにはダイオキシンすら必要なのである。

おわり