名古屋大学・教養教育院の4D講義室に行くには、半屋外で常に寒風吹きすさんでいる階段を4階まで登るらなければならない。学内といっても私の部屋からこの講義室に行くのには片道25分はかかる。往復50分間、冷たい冬の風が吹くキャンパスを"凍死"せずに到着するには、学内なのにコートもマフラーも欠かせない。私は重装備して教授室を出る。
25分後、講義室に着くと、私はマフラーとコートを脱ぎ、かじかんだ手をさすりながら、寒さでこわばった口を開き、今年度の最終講義を始める。
「この中でダイオキシンが毒物であると思っている学生は手を挙げてください。」
80人ぐらいの講義室の学生の過半が手を挙げた。
「ダイオキシンが毒ではないと思う人、ダイオキシンを知らない人」
という問いには誰も手が上がらない。
そこで私が、
「ダイオキシンは毒物ではないことが最近、はっきりしてきた。現在の許容量の1000倍近い濃度に20年ほど接しても危険性は一日タバコ一本程度という研究結果が正しいとされている。」
と説明する。
「ところで、皆さんはダイオキシンが毒物であるという情報をどこから得ましたか?まさか、テレビや新聞ではないでしょうね。」
私は教室を見渡しながら学生の顔を見る。怪訝な顔が並ぶ。
「テレビや新聞が間違った情報を流すとも言えないけれど、間違いもある。先入観でダイオキシンが猛毒だと思っている記者も多い。」
と続ける。
その講義は熱力学や反応速度論を講義する物理化学だから、ダイオキシンの毒性は「脱線」に当たる。でも、「ダイオキシンの毒性」というテーマはこれから学生に教えることの教材として重要なのだ。
「紙のリサイクルというのがある。皆さんは中学校で紙のリサイクルは環境に良いと教えてもらっただろうが、論理から言うとどうだろうか?」
と問いかける。最初にダイオキシンでショックを受けている学生は、今度は何が来るかと身構えている。
「紙は樹木からパルプを経て作られる。樹木は太陽エネルギーで作られるもっとも優れた持続性資源だ。だから、新しい紙を使うことは持続性資源を有効に使う環境に良い行為だ。」
「ところが、紙のリサイクルは輸送、脱墨など石油を使用して再生するから、紙のリサイクルは持続性資源を使用せずに、非持続性資源を使う行為と言える。」
と話す。
「みんな錯覚していたと思う。事実をよく観察し、その後、論理を立てることが必要だ。しかし、社会の多くの解説や論評などは、意見が先にきて、後から事実が追っかける。」
「それだけならよい。時には、「感情」が先走って、その後に「意見」、それから無理に「論理」をたて、それに適合する「事実」を探す。酷いときには自分の感情と相容れない事実を書かなかったりする。」
私は雄弁になってきた。
「君たちは、確かめる暇もなく、「ダイオキシンは猛毒」という幻想が頭に入ってしまった。そのうち、ダイオキシンが憎らしくなり、ついには理由はともかく「ダイオキシンをやっつけよう」と思うようになる。」
「実は5年ほど前、ある大新聞に「セベソの事件」のアニメ映画の宣伝の記事が大きく出た。そのアニメ映画ではイタリアのセベソでダイオキシンの大きな事故があり、多くの犠牲者がでたので、日本から献身的な女の子と新聞記者がセベソへいって犠牲者を助けるという筋書きだった。」
「私はその記事を見るとすぐ新聞社に電話を掛け、「セベソでダイオキシンの事故が起ったのは事実だが、私の調査では犠牲者はいない。いくらアニメだからといって事実に反する映画を宣伝するのはどうか」と話した。その後、その映画は環境庁指定の映画になっている。映画を作った人が悪意だったかは別だが、感情が事実を作り出した例である。」
実はこの映画は現地での取材はほとんどしていないことが後で判ってきた。それでも公的な推薦を受けている。推薦をした人も事実を見てない。
「科学的な研究でも私たちは、最初に先入観や意見、希望、感情が入ることを大変、警戒している。人間は「そう思いたいということを事実と信じる」というのはダーウィンの言葉であるが、本当に、そのような経験を良くする。」
「事実をよく見ないで一旦、ダイオキシンが猛毒だと信じてしまうと、事実でもない事実がすばやく流布され、その後、"本当の事実"が判明しても、すでに先入観で固まっているので、"本当の事実"はかえって拒絶される。」
私は結論にたどり着く。
「ある物事を理解し、それに対する自分の態度を決める場合、
事実 → 論理 → 意見 → 感情
と4段階で行くのが良い。事実をまずしっかりと認識し、その後、論理が破綻していないかをチェックする。そして、必要に応じて意見を持ち、あまり感情でものを判断しないように心がけるのだ。」
「事実の把握という点を考えるには、ダイオキシンが良い例です。まずダイオキシンという毒物があると言う情報に接したときには仕方がないが、しばらく経ったら、自分の目で論文を読んだり、調査をしたりすることが必要であるし、それが出来なくても愛知県にダイオキシンの患者さんがいるかを考えても良い。」
「猛毒で焚き火をしても出るようなありふれた毒物なのだから、患者さんがでても不思議ではない。事実を自分の身の回りだけで判断するのは危険だが、事実は遠くに、そして近くにも求めなければならない。」
「論理の方は、先ほど話をしたように紙のリサイクルが良い例になる。論理としては紙のリサイクルは持続性という点では環境に悪い。それは論理だ。しかし、もし事実が「紙の製造で世界の森林が破壊している」と言うことになれば、「論理は事実に道を譲る」べきである。」
そこまで話をして、今年度の最後の講義を次のように締めくくった。
「あなた達は、これから3年間、大学で勉強して技術者になる。大切なのは、事実→論理→意見→感情 という4つを順序よく考えることだろう。事実は冷酷である。時には自分の気にいらない事実があるし、損害を被りそうな事実もある。それでも、事実を事実として受け止める強い精神力がいる。」
「そして、事実がよくわからないときには、仮に頭の中で論理を組み立て、最低でも論理矛盾をおこしていないように気を配る。そして、論理で組み立てた方向で仮決めしておき、できるだけ早く事実を確かめて論理的結論を修正する必要がある。意見や感情はそれからでも遅くはない。」
この位まで来ると知識欲のある学生は十分に理解し始める。
「社会はこの順序が逆になっている時がある。まず感情が先にあって「あいつは嫌いだ!」から始まり、嫌いだから相手の欠点を見いだして意見を構築する。事実自体をねつ造したくなるものだ。」
「感情的な結論はえてして自分の利己的である。だから、何とか屁理屈はつけられても感情から出発した論理は正当ではない。特に技術者や科学者は「事実」に素直でなければならず、また「論理」が通っていないことを疑う習慣をつけておかなければならない。」
講義はライブだから学生の反応はよくわかる。今日は、5割程度の学生が、事実と論理が大切であることを初めて知ったようだった。私は、4階の講義室から凍死階段にさしかかり、コートの襟を立て寒さに震えながら降り始める。
講義室の残像が私の頭に浮かんでくる。こちらを見ている100の瞳。その瞳はキラキラと輝いていた。私の頬は自然とほころぶ。
「大丈夫だ。私の後には優れた技術者が続く。私もそろそろ引退の潮時だ。」
冬の風が私の頬を刺すように流れていくが、興奮気味で紅潮した私には心地よかった。
終わり