それは60年の歳月を経た女の皮膚であったが、それでも縁側からさし込む夏の太陽の光に白く透き通っていた。脳裏の遠くに映るその光景は妙に眩しかった。

 亮二の戦死の知らせが東京の家に届いた8月4日、私の疎開先だった福島に親族が集まることになって、お葬式の日取りが8月15日の12時に決まった。その前日になって重大放送が正午にあると言われ、式はその後ということに落ち着いたのだった。

 その日は朝から準備やら、なんとなく落ち着かないまま、すぐ昼になり、こんな事でもなければ集まらない顔ぶれが庭に整列していた。まもなくボリュームを一杯にしたラジオから陛下の玉音放送が響いた。

 あるいは泣き崩れ、あるいは座り込む大人の中を、私は所在無く歩き回っていたように覚えている。祝詞のように流れ出す陛下の放送、そよぐ葉の間から聞こえてくる蝉の声、そして押し殺したようなすすり泣きが交錯して灼熱の砂埃の中に消えていった。

 祖母が白木の箱を前に縁側にへたり込んだのはそれからしばらくしてからだった。無条件降伏を告げる玉音放送、そして目の前にある戦死した息子の骨を収める白木の箱、その二つが祖母ばかりではなく、お葬式の参列者にはどうしても理解できなかったのだ。

 冬に召集され新たに編成された沖縄守備隊に入った亮二。その戦死の報は、すでに長子をラバウルで失った祖母にとっては耐え難いものであったし、四人の子供のうち、一人残された男の子が二十歳の人生をこのような形で閉じなければならなかったことを納得できるはずもなかった。

 「なんで・・・」
 戦争は終わったというのに祖母の前には白木の箱となった息子がいた。

 決心したように身を乗り出し、そっと手を伸ばして祖母はその箱の蓋に手をかけた。苦しかっただろう、心残りだっただろう、あの利発でやんちゃだった亮二がこうしてわたしの前にいる・・・その骨は私が拾ってあげなければと心を決めて手を伸ばしたのだ。

 真夏の太陽が白く透き通った指をまるで透視写真のように映し出した。

 奥の座敷からはそんな祖母が遠くに見えていただけだったが、誰一人として立とうともせず、声もなかった。むごいことだが開けてやって欲しいという参列者の気持ちは、きっとその年老いて二人の息子を失った母親に届いていたのだろう。彼女は意を決したように蓋を持ち上げ、そっと蓋を縁側においた。キラキラと揺れているような太陽の光は祖母の小さく震える肩を照らし、ジッと動かずに箱のふちに当てた手の影を縁側の板に映し出していた。

 「ああ、亮二・・・」
 祖母は、しばらくして手を白木の箱の中にさし込み、まるで九月の十五夜にそなえる里芋のような形をした小さい灰色のものを出してきた。

 石だった。

 その石は祖母に手の上で少し揺らいだように見えたが、祖母はそれを見つめ、さすり、そして頬ずりした。
 「ああ、亮二・・・」
 祖母の頬をつたった涙がみるみるうちに石を黒く染めていった。

 歴史は日本を戦争へと駆り立てていったし、ひたすら父母を守り、妻子を守ろうとした兵士は戦場に散った。それは歴史的必然だったのかも知れない。人間という存在はそういうものかも知れない。でも、民族全体の運命は一人の人間の悲しさに打つ勝つことができるだろうか?